板垣武四市長は市政のマンネリ化を懸念し、三期で市長を退任するつもりでいた。市政第三期後半に入って、「意中の後継者」であった第一助役の平瀬徹也に次期市長選への出馬を打診していたが、平瀬は容易に出馬を承諾しなかった(思い出すまま)。
この時、堂垣内尚弘北海道知事が三期で引退を表明し、道内保守勢力から、知事選と札幌市長選をともに新人候補で戦うのは保守側の苦戦を招く、大票田札幌市は現職市長をそのまま立てて戦った方が知事選に有利であるとして、板垣の市長留任を望む声が高まり、結局板垣は四選出馬を受けることとした(思い出すまま)。
対立候補は共産党公認の前市議阿部昭一(北海道勤労者医療協会理事長)であった。過去三回の市長選で革新統一候補を立ててきた社会党は今回、候補擁立を断念した。阿部は、五十八年二月一日に有料化された老人医療費の無料化、国民健康保険料引き下げ、四〇人学級実現、大型店出店歯止め、市営住宅大幅増設と地元企業への優先発注、非核平和都市宣言など、福祉、教育、地域経済、平和を前面に打ち出した(道新 昭58・4・10)。
板垣は、前回と同じく自民・公明・民社・新自由クラブ・社会民主連合の推薦を得、一九二の地域後援会・婦人団体、四五〇の推薦業界・団体で構成する後援会連合会、確認団体「明日をひらく札幌市民連合」などに依拠して市長選を戦った(道新 昭58・4・7)。
五十八年四月十日の市長選の結果は、板垣五九万九七一六票、阿部一六万九二〇九票で、板垣が大勝した。社会党・札幌地区労は知事選優先の観点から板垣支持者の横路投票を得るために、市長選は「不戦」戦術を採用した(道新 昭58・4・12)。