ビューア該当ページ

石狩湾新港地区への工場立地

250 ~ 252 / 1053ページ
 石狩湾新港は、当初昭和六十年完成をめざしていた。ところが、高度成長から低成長へという経済環境の変化により事業は大幅に遅延した。六十年に発表された札幌商工会議所のレポートによると、石狩湾新港は昭和六十年時点の貨物取扱量を約一〇〇〇万トンと予測していたが、防波堤工事は六割方進捗したものの、船舶が接岸できる埠頭は予定二九バースに対しわずか一バースにすぎず、後背地の工業団地への立地も九一社三組合あるものの、全面積の二割にとどまっている、という。遅れの要因は低成長とならんで産業構造の変化、すなわち経済のソフト化、サービス化が進行し、物資流通も軽薄短小になり貨物取扱量が伸びないことである。札商レポートは、石狩湾新港の活性化策としてソビエト連邦のバム鉄道(第二シベリア鉄道)開通をにらみ、その終端となるソフガワニ(ソビエツカヤガバニ)との貨物輸送を行うこと、国内では、太平洋側流通は苫小牧港との競合が避けられないので、日本海側および関西地区に着目し取引を活発にすることを提唱している(札幌商工会議所 石狩湾新港の促進に関する調査報告書 昭60)。日本海側港の振興策として、大陸との流通や関西との取引拡大は戦前以来繰り返し提唱されたことであるが、実現にはほど遠いのが現状であった。
 表13に六十年四月時点の立地企業数を掲げた。工業団地の分譲は五十三年から始まり、分譲価格は一平方メートルあたり一万円とされた(道新 昭53・6・4)。先述の発寒地区第三工業団地は、五十七年時点で一平方メートルあたり三万円であったから、いかに安いかがわかるだろう。同年中に北日本木材(本社・旭川)、ほくさん(本社・札幌)など九社への分譲が決まった(道新 昭53・8・20)。その後分譲企業数は翌年二月には二四社、八月に三四社と順調に伸びた(道新 昭54・2・10、8・8)。五十六年八月には札幌の鉄工業者が石狩新港機械金属工業協同組合を結成し、石狩湾新港の工業用地三六ヘクタールを取得し、札幌市を中心に五〇社が移転するという計画をたて(道新 昭56・8・29)、六十年四月には第一期進出企業七社が操業を開始した(道新 昭60・4・14)。また、国外からデンマークのノボ・インダストリー(通称ノボ社)が工業用酵素生産工場をつくる計画を発表し(道新 昭58・2・8夕)、六十一年六月から試験操業を開始した(道新 昭61・9・3夕)。
表-13 石狩湾新港の企業立地(昭和60年4月現在)
分野立地企業数面積
千平方メートル
うち操業企業数
住宅関連34社34413社
建設関連35社62013社
機械金属関連6社1組合(36社)3341社1組合
食品加工関連1組合(36社)179
工業用酵素1社57
ユーティリティ6社674社
流通関連9社2組合(91社)6182社2組合
合計91社4組合(163社)2,21933社3組合
札幌商工会議所『石狩湾新港の促進に関する調査報告書』昭60

 バブル経済の時期には石狩湾新港への企業進出はにわかに活況を呈した。昭和六十二年度三〇社(一六ヘクタール)(道新 昭63・4・10)、平成元年度は工業地区六三社、流通地区五八社、計一二一社を記録した(道新 平2・4・3)。気をよくした石狩開発は、二年度の分譲価格を六・九パーセント引き上げ一平方メートルあたり二万一六〇〇円とすることにした(道新 平2・7・11)。これらの企業立地の好調にともない同年には石狩湾新港の年間貨物取扱量は初の一〇〇万トン突破を記録している(道新 平2・10・30)。もっとも、当初計画では六十年に一〇〇〇万トンの予定であったから、計画との落差は依然として大きかった。
 企業数累計は平成四年中には六七四社を数えたが(道新 平4・8・8)、バブル崩壊とともに新規立地は急減し、五年度末の企業数は六八〇社となっている(道新 平6・5・12)。さらに、鳴り物入りで進出したノボ社が「原材料、電力、人件費が高い」ことを理由に工場閉鎖、撤退を表明したことは、工場誘致の難しさを示した(道新 平8・2・15)。