四十一年には地下鉄建設の構想が固まり、冬季オリンピックの開催が決定する一方、翌四十二年には、四十年四月駅前に開業した月賦販売専門店の緑屋が南二条店を開店し、長崎屋や婦人服・子供服小売の大晃も開店するなど西二丁目に大型店の集中がみられた。元来札幌最高のショッピングコースは駅前通商店街から狸小路商店街に交差するT字型、もしくはそれに南一条通を加えるF字型といわれてきたが、西二丁目に大型店が相次いで開店したことで、南一条西二丁目通から狸小路四丁目通の一周コースが主流となり、狸小路自体も京都の新京極のような観光名物化するのではないかといわれた(タイムス 昭42・8・31)。このため狸小路商店街や南二条西三丁目のサンデパートを中心に、四十三年八月駅前通をはさむ東西の商店街により地下歩道建設期成会が結成され、地下鉄開業にあわせて地下歩道をつくる運動が始まった。
四十四年五月には株式会社札幌都市開発公社が発足し、当初は現在のポールタウンのみ建設する予定だったが、地下街は商店街としてより、公共通路としての役割を優先すべきだという建設省の意向もあり、大通に駐車場を建設し現在のオーロラタウンで連絡する構想が持ち上がり、二つの地下街をつくることとなった。翌四十五年三月にはポールタウン、七月にはオーロラタウンに着工し、その間の六月からテナントの募集が開始されたが、できるだけ地元資本の商店を優先し小規模資本の商店も入居できるよう名古屋や大阪の地下街より協力金を安く設定した。またオーロラタウンは一店舗あたりの面積が大きく、しかも大通の地下にあり地上の交通量から考えて儲からないと予想され、当初はポールタウンに申し込みの九割が集中した。そのため地元資本をできるだけポールタウンに残し、本州資本や大きな面積を希望する店をオーロラタウンにまわすといった措置もとられたが、地元資本のなかにはオーロラタウンへの出店が決まると入居希望を撤回する店もあった。
四十六年三月札幌地下街商店会が発足し、その年の十一月十六日地下街は開業した。開業時の店舗数は、衣料品店三一、雑貨店二九などを含む一五一店で、喫茶店や飲食店、食品店はポールタウンを中心に出店した。また本州資本はオーロラタウンを中心に一五一店のうち四分の一を占めた。
地下街は地下鉄と直結していることもあり、開業一カ月で一日約三〇万人が通行し、その後も「冬の通路」として都心部の通行に重要な役割を果たした。また当初は予想だにされていなかったオーロラタウン方向への人の動きが活発化し、地下街建設に積極的だった狸小路商店街の衰退を招いたのは皮肉な結果であった。また地下街に本州企業が進出したことをきっかけに、札幌都心部の購買力に目をつけた本州大手資本が地下街と競合するデパートや専門店ビルに次々に出店し、その結果中心部の過密化と競争激化を招いた。このため地下街は、売り上げ伸び率が五十年までは対前年比一〇~三〇パーセントだったにもかかわらず、翌五十一年以降は一けた台となり、売り上げ高自体も五十年一七三億七〇〇〇万円だったのが五十五年には二〇〇億円程度となり、面積あたりの売り上げもデパート並みとなった。
写真-1 地下街建設工事