昭和三十九年ススキノでは、二条市場や大通などとともに三十年代なかばから再び問題となっていた屋台の撤去が行われた。ススキノの屋台は当時一六〇軒ほどで、おもに南五条西一丁目の新善光寺・南六条西二丁目の中央寺裏、南四条西六丁目の西本願寺跡地裏小路、南八条西九丁目のミトキ館周辺で出店し、一部では暴力団や売春などとの関わりも指摘され、地元市民からも撤去の陳情が出されるようになっていた(道新 昭39・2・19)。十月には強制撤去も行われ、一部には民有地を借り「屋台団地」と称して営業を行うものもいた(道新 昭39・10・11)が、その後徐々に姿を消していった。
一方この時期以降ススキノでは飲食店のビル化も進み、四十九年六月八日には「昼の薄野」(さっぽろ経済 昭47)の顔ともいえる松坂屋デパートが南四条西四丁目に開店するなど、「明るく近代的な」街づくり(道新 昭40・3・13夕)が目指された。四十八年のオイルショック以降の不況は、ススキノの客層を社用族やサラリーマンだけでなく若年層、あるいは女性客へと広げるきっかけとなった(道新 昭51・9・28)。五十年代になるとカラオケの流行がはじまり、ディスコ、カフェバーや居酒屋など、従来のバーやキャバレー、ナイトクラブ、ビアホールや酒場とは違った気軽さや個性、低価格を特徴とする新たな店が登場し、これらはより幅広い客層をススキノへと向かわせた。しかし一方で「暴利バー」の問題は依然として後を絶たず、青少年の非行や「ノーパン喫茶」といった新たな性風俗も登場し、歓楽街特有の問題からススキノが解放されることはなかった。