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商店街と小売市場

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 昭和五十七年に大型店の出店が凍結されたものの、その後六十二年までに札幌市内の民間小売市場は三分の一が姿を消した。これは大型店との競争に敗れバブル期の地価高騰により跡地に大手スーパーやテナントビル、マンションの建設が進んだためとみられ(道新 昭62・5・12)、市も市場調査や活性化のプランづくりなどを行ったが、根本的な解決策は見いだせなかった。また公設小売市場も、同じ商圏内にある大手スーパーの攻勢や出店店舗の減少、消費者のニーズに合わせた店づくりや近代化への取り組みが遅れ、六十三年ごろから民営化への動きがでてきた。翌平成元年十二月からは南円山(ユアーズなんまる)、青葉、もみじ台、豊平八二、南の沢の払い下げ交渉が開始され(道新 平1・11・28)、翌二年三月八日から五カ所全てが民営化された。また六月には手稲山口、屯田の公設小売市場も民営化したが、光星、西岡は出店者でつくる協同組合が土地を取得していなかったことから払い下げ交渉が難航し、四年四月光星は民営化されたものの、西岡は一時閉鎖が予定されたが、屯田商業協同組合が敷地と建物を買い取り、七年七月民営化された。一方民間市場でも九年末には「麻生の台所」として親しまれてきた「山田市場」が閉鎖され、中央区の「まるやまいちば」がマンション店舗で再出発を図ろうとしたが、地価の下落と不況により再開発が中止となる(道新 平10・11・24)など環境は厳しい。平成八年十月の調査によると市内の小売市場は三八軒ほどであるが、市場特有の「対面販売」に活路を見いだそうとする市場もみられる(道新 平9・1・31)。
 一方、商店街に対しても市は、商店街診断や街路灯やロードヒーティングを含めた環境整備や情報提供、組織づくりなど活性化にむけての支援を行った。また商店街自体も、アメリカなどの大店法改正要求、さらには「消費者が望んでいる大型店に商業者だけが反対して阻止できる時代ではない」(道新 昭63・11・26)として、むしろ積極的に大型店を誘致してサブ店舗として入居したり、大型店を「核店舗」(道新 平4・7・29)として地区の再開発を図ろうとするなど、共存共栄のあり方が模索された。さらに商店街を法人化して「商店街振興組合」を創立したり、地域活性化を目標とした会社組織をつくるといった動きもあった(道新 平2・3・2、6・2)。一九七〇年代後半から一九八〇年代にかけてブティックや工芸店、レストラン、ファッションビルの出店でにぎわい「札幌の原宿」といわれた裏参道も九〇年代のバブル崩壊以降衰退したが、地元商店街が北海道神宮や円山公園に近い土地柄を生かした「個性ある散策路」づくりを目指した(道新 平9・1・24)。しかしかつての大型店の規模をはるかに超える近隣型ショッピングセンターの登場や、地下鉄の延長やバス路線の変更など交通事情の変化、地域全体の高齢化、また既存大型店自体の採算悪化、集客力にも疑問がでてくるなど商店街再生へむけての難問は多い。