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若年労働者の札幌集中

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 札幌市内の労働力不足は、オイルショックにより不況に陥る直前の昭和四十八年まで継続した。四十八年の新規就職者数は市内高校卒・中学卒ともに進学者の増加により前年に比べて半減した。そのうえ高校卒男子のうち市内に就職決定したのは四十七年一八六四人のほぼ半数の九九四人、高校卒女子だけは前年(三二〇〇人)に対し二七〇〇人でやや下回る程度となった。このため中学・高校卒の新卒者を募集した鉄鋼・製造業会社、外勤営業部門の職場、理容・美容院、医院准看護婦、地域商店街は深刻な人手不足にさらされた。札幌商店振興組合連合会では、「金の卵」の中学卒者を獲得するために四十二年に集団求人を開始したが、当時一〇〇人もの中学卒者を受け入れることができたにもかかわらず、四十八年の同連合会による集団求人採用者受入れ式に参列したのは市内七人と宗谷・日高管内の中学卒八人の合計わずか一五人であった。また、高卒男子を募集した販売会社、鉄鋼・木工・塗装などの技術系事業所は、過年度卒の一般若手従業員募集に切り替えた。一方、職種選択の傾向は強くなり、札幌冬季オリンピックを契機に新築が相ついだ札幌中心部のホテル・地下街の商店などは求人より求職者が上回るのに対して「周辺の会社や商店には目もくれない」(道新 昭48・3・23)という現象もみられ、四十八年は前年の求人充足率の高校六六パーセント、中学三二パーセントをかなり下回る予想となった。新規学卒確保のための集団求人によって同一業種間での賃金や労働条件の格差解消が行われ、結果的に人手不足の対策が、宿舎の完備や失業保険(昭50年雇用保険に改組)実施など雇用条件を改善させ近代化させた。
 このように、四十八年までの高度経済成長を製造や建築現場、販売で下支えし、またさらにその後も労働力や社会人として市民社会形成の一員となったのは、毎年道内各地から札幌に就職してくる中学卒・高校卒の若年労働者たちである。特に住み込みの店員や工員は市外からの中学卒が担ったのは先述したごとくである。市外から移入する若年労働者の詳細な人数は不明だが、中学卒の職業安定所を通じた人数は表39にあるように、三十五年に四五〇人であった管外就職者が四十年には二一〇四人に増えて市内就職者全体に占める割合も二三パーセントから五五パーセントに増加し、年少労働者の過半数は管外からの中学卒者に頼っていたことが分かる。そのほかの縁故就職も加えると、毎年中学卒六〇〇〇人、高校卒一万三〇〇〇人(道新 昭47・11・21)という四十七年の数字がある。また、同年の丸井・三越五番舘・池内・そうごの五店だけでも市外出身者四〇〇〇人が働いていた(道新 昭47・12・20)。
表-39 札幌職業安定所-中学校卒業就職者の管内・管外比率(昭和35年~40年)
区分昭35昭36昭37昭38昭39昭40
就職者数就職総数  a(人)1,9282,1083,0542,8072,7043,828
札幌小計  b(人)1,4781,3021,6371,5761,5201,724
比率 b/a(人)76.761.853.656.156.245.0
札幌管外小計  c(人)4508051,4171,2311,1842,104
男   (人)
女   (人)
231
219
402
403
783
635
638
593
659
438
1,067
1,037
比率 c/a(%)23.338.246.443.943.855.0
札幌公共職業安定所調。
『中学校卒業生の札幌市内就職状況調査』より作成。

 札幌に集中するこのような若者たちが親元を離れて「孤独な生活」を送っているのではないだろうか、との心配や、若年労働者たちの「健全な」余暇の過ごし方などへの対策として、すでに三十五年、業界からも福祉施設の建設を求める陳情が市議会に提出されていた。