しかし同時期、文部省の諮問機関である大学設置審議会大学設置計画分科会は、高等教育の計画的整備について、新設大学などの設置抑制を答申した。昭和五十六年度から六十一年度までの期間には、特別の必要があるものなどを除き、大学などの新増設を行わない区域を指定し、その中に札幌市も含まれた。五十六年、市では困難な状況のなかで芸術村構想を打ち出し、芸術大学誘致の受け皿とした。しかし同年七月には臨時行政調査会が行政改革第一次答申を出し、国立大学については大学・学部などの新増設を原則として見送る旨を明記した。同年第三回市議会定例会において板垣武四市長は、五年計画が終わる五十九年度までの誘致は絶望的と答弁した。
六十一年四月、臨時教育審議会第二次答申では、高等専門学校の「工業、商船以外での分野への拡大や名称変更を検討する。具体的な方策として、これまでの単科としての機能を生かしつつ、その分野を外国語、情報・経営、芸術(デザイン)等に変更することを検討する」とされた。市では新しい構想を具体的に検討するため、六十一年九月、日本開発構想研究所に調査を委託することにした。同研究所では「札幌市における新大学等基本構想策定調査委員会」を設置し、六十二年三月に中間報告を提出した。この報告では、全国に先がけ、芸術を総合的に教育・研究する機関のモデルとして、中学校卒業後五年間の一貫教育ができる公立、または学校法人による芸術専科大学の設置が望ましいとされた。六十二年第四回定例市議会において板垣市長は、設置主体としては市立が望ましいと考えている、形態は専科大学(仮称)が望ましい、学系については、デザイン分野に絞って発足すべきである、と答弁した。ここに事実上の国立芸術大学誘致の断念、市立によるデザイン系の専科大学(仮称)の設置が表明された。六十三年三月、同研究所から基本計画が提出された。そこでは、工業系デザインの専門分野を有した高等専門学校として準備を進め、高等専門学校の専科大学への名称変更という学校教育法改正を待つのが望ましいと報告された。同月に策定された「第三次札幌市長期総合計画」にも、「(仮称)札幌芸術専科大学」の設置が位置づけられた。