昭和四十七年(一九七二)の冬季オリンピック札幌大会は、市民スポーツの画期であった。一つにはオリンピック開催を機に市民のスポーツへの関心が高揚し、二つ目にはこれを受ける形で日常生活におけるスポーツの条件整備が図られていったからである。とりわけ、一九七〇年代は全国的にスポーツの大衆化がみられ、各地でその対応が急務となっていった時期である。札幌市の人口は、第二次ベビーブームや炭坑閉山により転入が増加し、また冬季オリンピックと政令都市移行に伴う都市利便性の向上はこれを後押しした。市では、市街化区域の拡大、これに伴う都市インフラ、社会資本整備が必要となっていった。
急速な都市化とスポーツの大衆化への対応は、札幌市に限らず、すでに全国的課題となっていた。四十四年「新全国総合開発計画」が発表され、同年、国民生活審議会調査部会コミュニティ問題小委員会「コミュニティ~生活の場に於ける人間性の回復~」が示された。地域の共同体を具体的展開場面として措定する従来の社会体育論は、変貌する都市社会への対応を迫られることになる。ここでは、行政施策の広域化が図られる一方、生活圏域での市民の生活要求に応えることが困難(地域の「空洞化」)となり、地域社会の再編が課題となった。こうした背景の下、スポーツに対しコミュニティ形成機能が「期待」されることになる。「コミュニティ・スポーツ論」の登場である。
ただし、拡大した市民スポーツ活動の場や機会の提供が十分なされていたわけではなかった。例えば、四十四年時点の国の調査では、全国一四万五〇五九カ所の体育・スポーツ施設のうち、学校体育施設(大学・高専を除く)が六八・七パーセントと最も多く、次いで職場スポーツ施設の一六・一パーセント、公共スポーツ施設に至っては六・九パーセントに留まっていた。札幌市においても公共スポーツ施設は限られていたといわざるを得ない。市教育委員会(以下市教委)が管理する屋内施設は、中央体育館とオリンピック後に開放された美香保、月寒体育館のみであった。