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札響の発展

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 北海道で初めてのプロオーケストラとして昭和三十六年(一九六一)に誕生した札幌交響楽団は、四十四年に着任した第二代常任指揮者ペーター・シュバルツのもと、クラシック音楽の軸となるドイツ・オーストリア系の曲を中心としたプログラムで技量を磨(みが)いていった。四十九年には東芝EMIからシュバルツの指揮でベートーベンの「交響曲第三番〝英雄〟」とプフィッツナーの「小交響曲」を組み合わせたLPレコードを発売し、またキングからも「札響ファミリー・コンサート」のLPが福田一雄の指揮で発売された。
 四十八年五月には、年一一回の定期演奏会に加えてのシリーズ音楽会として「ほくでんファミリーコンサート」がスタートした。名曲を中心にしたプログラムによる公開録音番組で、年一三回、札幌を中心に全道で開催されていった。
 札響の初の海外演奏旅行はシュバルツ時代の最後を飾って五十年六月に行われ、札幌の姉妹都市であるアメリカのポートランドと西ドイツのミュンヘン、さらにミュンヘン近郊のガルミッシュパルテンキルヘンで演奏会を開いた。ミュンヘンのアーベント・ツァイトゥンク紙は、「今週のスター」に札響を選んだ。シュバルツは帰国後の七月九日に開かれた送別演奏会を最後に札響を離れた。
 札響に楽員組合が結成されたのは、海外旅行直前の五十年二月である。雇用関係の安定化、賃金アップ、退職金制度を求めての結成で、五十三年三月には楽団員補充問題がこじれて組合が道地労委へ不当労働行為救済申し立てを行う事態となったが、六月に和解した。
 そうした動きの中で、五十年七月に理事長が第二代の伊藤義郎(伊藤組社長)から上関敏夫(かみせきとしお)(北海道新聞社社長)に交代し、以降は北海道新聞社の社長(会長)が引き継いでいくこととなった。また五十三年六月以降は、北海道新聞社から派遣された専務理事が運営面を率いる態勢が出来上がった。
 シュバルツに続いて札響の演奏面を率いたのは、五十年十月の定期演奏会から正指揮者としての活動を始めた岩城宏之(いわきひろゆき)である。五十三年からは称号が音楽監督に変わりながら、六十三年春までの一二年半にわたって、邦人作品、近代管楽作品を重点的に取り上げるプログラムでレパートリーを拡大させた。また、現代作品にも積極的に取り組んだ。五十六年八月からは岩城に加えて尾高忠明(おたかただあき)が正指揮者となり、ハイドン・シリーズを始めてオーケストラの音を築き上げていった。
 この間の定期演奏会ではR・シュトラウス「英雄の生涯」(六十二年三月)、マーラー「交響曲第五番」(六十二年六月)など初めての大曲も取り上げられた。岩城の指揮による話題の演奏会としては、武満徹の五曲だけによるプログラムで開いた五十一年十二月の定期演奏会、武満の新作三曲を世界初演した五十七年六月の特別演奏会がある。また六十年四月には、黒沢明監督の映画「乱」に作曲した武満の音楽を千歳市民文化センターで録音するといった出来事もあり、この演奏はレコードとなって発売された。五十三年に初めて行われた野外演奏会「グリーンコンサート」は、幅広いファンの支持を得て、翌年から全道に広がった。

写真-1 札響グリーンコンサート(昭54.8.5)

 指揮者陣が新たな陣容となったのは六十三年である。ミュージック・アドバイザー兼首席指揮者に秋山和慶、専属指揮者に堤俊作小松一彦高関健(たかせきけん)が就任し、岩城宏之は桂冠指揮者(けいかんしきしゃ)となった。
 平成元年(一九八九)三月からは東京、大阪での自主公演が始まった。このころになると家庭で音楽に親しむ媒体はLPレコードからCDに移り、ライブ録音のCD発売が相次いだ。元年六月に東芝EMIから発売されたチャイコフスキー「交響曲第五番」(指揮堤俊作)は前年五月定期のライブ録音で、発売一カ月後には全国週間売り上げチャートの一位を占めるヒットとなった。また、札幌のファンダンゴ・レコーズも二年からシベリウス「交響曲第二番」(指揮秋山和慶)、ベルリオーズ「幻想交響曲」(岩城宏之)、チャイコフスキー「交響曲第一番」(秋山和慶)、ベートーベン交響曲シリーズ(山田一雄、矢崎彦太郎)を次々と発売し、好調な売れ行きを示した。
 創立三〇年を迎えた三年には、新たに二つの計画をスタートさせた。三管編成・七四人体制から四管編成・九〇人体制への拡大を目指し、札響基金を創設させたのである。後者は、利息を一般会計に繰り入れて楽団経営に余裕を持たせようという狙いだった。