ビューア該当ページ

史跡・有形文化財

961 ~ 962 / 1053ページ
 手稲山口バッタ塚は、大量発生したバッタの卵を埋め立てた盛土の跡塚であり、「先人苦闘の跡を知らせる貴重な文化財」で築造年代は明治十六年(一八八三)とされている(島倉亨次郎「調査報告書」、参考文献参照)。昭和四十一年に「開拓の遺跡、壊滅寸前」「残るわずか一ヘクタール」と報道され(道新 昭41・1・24)、遺跡の一帯が不動産業者によって宅地化が進み保存が危ぶまれていた。しかし、保存を求める声とともに業者によって四十二年に九四一平方メートルが市へ寄付されていた(道新 昭42・2・27)。ただ、文献的な裏付け資料がないために指定が遅れ、五十一年に指定の検討に入るも関係資料がなく、先の島倉の「調査報告書」を受けて五十三年二月十六日の市文化財保護審議会にてようやく指定を答申し、五十三年八月二十一日に市文化財として初の史跡指定となった。
 札幌村・大友亀太郎関係歴史資料及び史跡は、札幌村郷土記念館にて保管しているイシカリ御手作場の関係資料である大友亀太郎文書、及び同館の敷地が御手作場の中心地であったことから、六十二年二月二十日に一括して有形文化財と史跡に指定されたものである。大友亀太郎文書は慶応二年(一八六六)に幕府によって札幌に設置された、御手作場の経営計画を伝える貴重な資料であった。市では小田原市の大友家から寄託を受け、札幌村郷土記念館に六十一年六月より展示し、さらに六十二年一月に正式に大友家より市へ寄贈を受け文化財の指定となった。資料の大部分は、『新札幌市史』第六巻史料編一にて翻刻されている。
 木造日蓮聖人坐像は高さ八七センチの寄せ木造りであり、妙心寺が昭和三十八年に大本山法華経寺(千葉県市川市)から譲渡されたものであった。五十六年四月に調査したところ、体内銘より寛文六年(一六六六)に日住が四二歳の厄払いのために造像したことが判明した。仏師は不明であるが一流の仏師による優品と判断され、五十六年七月二十一日に美術工芸品では初の指定となった。新善光寺にも平安時代末とされる阿弥陀如来像(木造)が伝来しており、将来、いずれかの指定が待たれている。