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本殿放火と復興の歩み

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 四十九年十一月十日の夜、放火によって北海道神宮の本殿と祝詞殿(のりとでん)が焼失した。その直後、「アイヌモシリ」と署名する犯行声明が北海道新聞社に届いたが、事件解決の手がかりにつながることはなかった(道新 昭49・11・13、同 昭49・12・11)。幸いご神体は無事で、ただちに儀式殿へ遷座した。当面の祭祀や結婚式、祈祷の参拝者に大きな支障はなかったものの、新春を間近にしていただけに仮本殿の造営を急ぎ、十二月十四日に遷座祭を執行して初詣にそなえた。
 明けて五十年の元日、厳しい冷え込みのために参拝者は二六万人と前年の三〇万人を下回ったが、「三が日で四十七、八万人の参拝客が訪れ、これまでの最高を記録、おさい銭も約一千三百万円を集め」たと報じられている(道新 昭50・1・14夕)。また、鳥居の脇では有志によって「復興寄金のご献納を」との呼びかけが行われた(同 昭50・1・3)。当時は四十八年の第一次石油危機を発端とする景気の低迷期にあり、「ナベ底不況のまっただ中で明けた」年だったが(同前)、六月六日には北海道神宮復興奉賛会が発足して募財目標額を七億円とした。
 社殿復興事業は順調に進み、翌五十一年七月には本殿地鎮祭が行われた。五十二年一月五日の御木曳き(用材の台檜を表参道から神門まで曳く)行事を経て、四月に本殿上棟祭を執行した。五十三年に至り、本殿、祝詞殿、内拝殿の新築および関連設備が完成し、例大祭をひかえた六月十二日に本殿遷座祭を執行した。所期の目的を果たした復興奉賛会は、翌五十四年七月二十六日に北海道神宮奉賛会として改組された。
 新本殿で迎えた五十四年の初詣は、穏やかな天候に恵まれた元日に三一万二〇〇〇人の参拝者が訪れ、二日も一〇万人の人出をみた。「長引く不況、変わる大学入試制度など」のために縁起物を求める参拝者も多く、「カブラ矢、破魔矢を昨年より一万本増やし、ざっと五万本用意した」が「飛ぶ売れ行き」であったという(道新 昭54・1・3)。