北海道神宮の六月十五日、十六日の例祭は「札幌まつり」と呼ばれ、市内のみならず周辺地域からも人を集め、これに合わせかつては臨時列車、割引切符も発行されていたほどであった。人気を集めたのは、華やかな神輿渡御(みこしとぎょ)と山車(だし)行列、創成川沿いの見せ物小屋や露店、デパート・狸小路の商店街などであった。
中心となる神輿渡御は四十年に、中心街の交通混雑および五〇〇人のアルバイト、二五頭の馬の手当てが困難なことを理由にトラックの使用となった。このトラック行列は総勢二八台で、勤王隊なども乗っていた(道新 昭40・5・27)。渡御もこれまで十五、十六の両日から十六日の一日だけとなり、代わりに第一鳥居と第二鳥居の間で五台の山車と勤王隊が披露されていた。たださすがに、「トラックミコシ」の評判は悪く(同 昭40・6・17)、翌年には従来の徒歩行列に戻されることになるが、神輿渡御が十六日の一日だけというのは継続された。
トラック行列は馬使用の代替処置でもあったが、時期が下がるにつれ実際には多数の馬の確保も難しくなってきていた。五十二年の場合、「都市化が進むにつれて農家の数も減り、耕耘機の普及などにより市内での確保はもはや夢物語。ことし年番の第七祭典区(山車)、第一八祭典区(みこし渡御)では合計四十一頭の馬を求めて南幌、長沼、当別、江別、広島、栗山、由仁を探し回ったという」と報道されていたし(タイムス 昭52・6・2)、また五十七年には、馬の暴走による死亡事故が発生し、馬の安全管理が求められるようになってきていた。そのため五十九年より馬の使用を中止し、「鳳輦(ほうれん)に台車を据えて輿丁(よちょう)が奉舁(ほうよ)することに改められ、騎馬の供奉(ぐぶ)員はオープンカーか徒歩で供奉すること」という方式になっていた(北海道神宮史下巻)。