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寺院の転入

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 市内寺院の増加理由には新設のみならず、市外からの寺院の転入、あるいは市外寺院の「進出」などによる移設もある。
 本願寺派では浄光寺が昭和五十二年四月に沼田町、続いて広大寺が歌志内市より転入していた。広大寺は札幌在住の檀信徒のためと「都市開教」を目的に札幌への移転を決め、六十二年九月に平岡に土地を購入し、六十三年十月に本堂・庫裏などが完成していた(広大寺慶讃法要記念誌 昭63)。市外の寺院が、札幌への転入・進出を「都市開教」の論理でとらえていたのは興味深いことである。
 日蓮宗本行寺は五十二年に美唄市我路(がろ)より移転しているが、その理由は以下のように述べられている(日蓮宗北海道大鑑)。
我路は炭坑町として、戦前戦後は大いに殷賑(いんしん)を極めたが、石油エネルギー革命により、各炭山は殆んど閉山に追いこまれ、我路炭鉱(三菱美唄炭鉱)も又閉山の止むなきに至り、従業員及びその家族は、陸続として離山し大都市へ転出して行き、壇信徒は激減し、寺の維持経営も危殆(きたい)に瀕する状態になった。

 大谷派の正信寺ももとは当麻町に所在していたが、「壇徒少数、維持困難のため」に四十二年に閉鎖し、札幌での「再建」が図られていた(東本願寺北海道開教百年史)。そして五十六年八月に、現在地にて「再建」されることになる。大谷派では他にも平成七年に音別町から正楽寺、八年に音更町から綱遵寺、九年に平取町から明徳寺が移転してきていた。
 市外寺院の進出ということでは、本願寺派萬行寺が四十五年五月に夕張市の萬行寺分院として設置されていた。この分院が五十一年九月に独立して新たに萬行寺となり、五十七年十月に本堂・庫裏などの慶讃法要を行っていた(萬行寺慶讃法要記念誌 昭57)。札幌市内のみならず、江別市、北広島市、石狩市など札幌周辺にも市外寺院の転入がみられ、また別院、支院、出張所などの施設設置が多く認められる。
 壇信徒の市内転居、あるいは遠隔地よりの参拝に対応して、市内寺院による支院設置などもみられている。本願寺派の真宗寺は、大乗寺(豊平区平岸一―八)の手稲支院として五十三年、如来寺は川北支院として平成四年に設置されたのがもとであった。曹洞宗禅宥寺も、六十年に大宥寺(南一西一三)説教所として設けられ、翌六十一年六月に寺号公称をしていた。