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薄野娼妓並水子哀悼碑と水子供養

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 児童福祉法では一歳未満の子を乳児と呼んでいるが、一般には流産・死産・早産した子に対する水子、それよりも少し成長した二歳くらいまでの子を指す嬰児(えいじ)(女)、学童期前までの子どもは孩児(がいじ)(女)という区分がある。本来は死産胎児であるはずの水子が、現代社会においては乳児死亡の減少などにより乳児・幼児死亡に対する供養の大切さも認識されるようになった。埼玉県秩父郡小鹿野町の紫雲山地蔵寺が、水子供養ブームのきっかけの一つとなった(福田アジオ他編『日本民俗大辞典』、二〇〇〇年)といわれているが、そこには産みたくても産めなかった女性の精神的苦悩を沈静化するために、仏教のみならず広く神道・キリスト教・新宗教などの既成教団、霊能力者が関与することで大衆化が促された側面がある。
 明治三十一年(一八九八)五月に花街すすきのに創建された通称・豊川稲荷(豊川稲荷札幌別院、本寺は愛知県豊川市の妙厳寺)は、すすきのの守り神であるとともに、水子供養を行う禅寺(玉宝禅寺・曹洞宗)としても知られている。毎月の依頼件数は一〇〇件にも上るという。昭和五十一年(一九七六)五月二十五日には豊川稲荷境内に、「薄野娼妓並水子哀悼碑」が建立されたが、碑石建立に際して当時の北海道知事が碑文を寄せていることからも、当寺がすすきのの象徴的存在であったことが窺われる。
薄野娼妓並水子哀悼碑」のいわれ
薄野は明治四年、当時の判官により開拓労務者の〝足止め策〟として薄野遊郭を置いたのが起源であります。
その開拓を支えた遊郭の娼妓達を供養し、さらにはその陰にある水子と、現代の水子(見ず子)の霊を慰める目的で北海道知事堂垣内尚弘氏から碑文を頂き、建立したのが、この哀悼碑であります。
 昭和五十一年五月二十五日記
 薄野花街哀悼碑建立期成会 合掌


写真-7 薄野娼妓並水子哀悼碑

 平成十六年十一月二日の北海道新聞(夕刊)が、厚生労働省の調査を基に一九歳女性の五〇人に一人、一八歳女性の六四人に一人の割合で人工妊娠中絶が行われていると報じていた。こうして処理された水子の中には、恐らく妊娠を望まずに人工中絶された結果、社会から切り離され、産婦人科や胞衣業者によって密かに処理されるケースが多数含まれているのであろう。堕胎や間引きが家族や地域社会の維持のためにやむを得ず行われていた時代とは違って、現代社会においては、人工・自然流産児が積極的な意味を持つことは少ない。こうした胎児が社会的に認知されるための数少ない選択肢の一つが水子供養なのである。