1876年(明9)以来,地方の物産統計を主管していた内務省勧農局は,1877年11月「府県通信仮規則」を定め,勧農局と府県庁間に農業情報の通信連絡を開設した(第一則)。勧農局への報告は月報,年報,臨時報の三種とし(第四則),勧農主務属官内に通信委員を置くことを定めた(第十九則)。しかし,この「府県通信仮規則」は勧農局と府県との間に設けられた規則であり,開拓使は対象外であった。やがて同規則が定められた3カ月後に,勧農局と開拓使との間に農事通信を開設する案が浮上する。
勧農報告書御参考之為メ,毎刊回送可致旨御照会之趣致承知候。右報告書ハ別冊仮規川之通,本年一月より各地方庁ト本局トノ間ニ農事之通信ヲ開キ,本局臨時報ハ多クハ新聞紙上ニ報告シテ別ニ刊行セス。月報年報ハ漸次印刷ノ都合ニ候間,印刷ニ係ル分ハ其都度御回ニ可申候得共,其他ハ新聞紙上ニ而御了知有之度此段及御答候也。
明治十一年二月廿五日
前島勧農局長
開拓書記官御中
再申本文農事の通信ハ農務実際ノ事業ニ裨益ヲ与ヘ候儀ニ付,御使庁ト本局トノ間ニ於而ハ,該則ニ照準通信ヲ開キ候ハヽ,大ニ全国農事上ノ広益モ有之ト存候間御差支モ無之候ハヽ,交互通信試ニ御開行相成候テハ如何候哉。尤別冊仮規則ハ府県ニ対シ相設候条款ニテ,自然御実施上差障モ有之候ハヽ、斟酌増減モ可致候得ハ,無御遠慮御中越有之度此段併セテ及御照会候也。 (『開拓使公文録』道文5867)
このように勧農局は開拓使に対して,試みに農事通信を開設することを提案し,通信内容については斟酌する旨を書き送っている。9月24日勧農局は,開拓使が府県通信仮規則に準じて農事通信を開設することを決めたことを受けて,これを了承するとともに,同規則に追加があったことを報告し,あわせて開拓使においては通信委員を選定し,その氏名を本局に報告することを求めた(『開拓使公文録』同前)。
規則の追加とは1878年6月7日に設けられた第21~24則を指すが,開拓使に関わる条文は第21則であった。これは全国農事通信の区域を北部,中部,南部の三部に分けるという内容であり,同月27日には開拓使は通信区域の北部に編入することが通達された(『開拓使公文録』同前)。これに対して開拓使は次のように回答している。
当使ト御局トノ間ニ於テ農事通信之義,府県通信仮規則ニ準拠シ処分可致旨,兼而御打合之末,該規則第廿一則ヘ追加被致候旨甲第百廿三号御通牒相成候処,右廿一則ニ限リ開拓使ノ文字有之他ハ単ニ府県トノミニテハ処分上却テ疑団ヲ生スルノ懸念有之,且当使ハ府県ト同一視シ難キ場合モ有之旁以追加ハ御取消相成候様致度,尤通信之義ハ右府県通信規則ニ準拠シ取扱候義ト取極置候ハヽ別ニ規則相設ケ候ニ及申間敷,当使ニ於テハ札幌本庁民事局勧業課及渡島国七重勧業試験場東京出張所勧業課ヨリ通信往復可致委員之義ハ決定ノ上可及御通知御回答旁此段及御照会候也。
明治十一年十月廿九日
開拓書記官
勧農局御中
すなわち開拓使は,規則中の開拓使の取扱について,わだかまりを生じかねないとし,また開拓使には府県と同レベルでは処理できないこともあることを理由に,第21則に開拓使を追加することは取り消したいと申し入れた。とはいえ,開拓使は同規則に準拠しつつ通信を行うことをとりやめたわけではなかった。それが証拠に,農事通信を開設するに当たっては,札幌本庁民事局勧業課,七重勧業試験場,東京出張所勧業課に通信委員を置くといっている。ここでは府県通信仮規則を開拓使に適用することに異存はないが,規則の中で開拓使と府県が同レベルで取り扱われることに抵抗を示す開拓使の所見がうかがえる。この申し入れは同年11月7日勧農局に聞き入れられ,同12月18日札幌本庁勧業課では4人の通信委員を置くことになる。
1879年(明12)9月22日札幌本庁では丁第69号達「農事通信仮規則」を制定した。仮規則の内容は,大きく分けて勧業課の責任・任務と,通信者の資格・任務の二つの事項にわたっている。以下「農事通信仮規則」(抜粋)の通信者に関わる条文から,勧業課がどのように通信報告を確保していたのかをみておく。
第一則 勧業課ニ於テハ土地ノ広狭便否ヲ量リ予テ通信者ヲ選定シ勧業課ヨリ印鑑ヲ与ヘ常ニ携帯シテ各所ニ就キ事実ヲ質問スルノ証トナサシム
第三則 通信者ハ何人ニ限ラス農事ニ篤志ニシテ通信ヲ為スニ差支ナキ者ヲ撰フヘシ
第四則 通信者ハ常ニ意ヲ農事ニ注キ第七則第八則ノ各項ニ照シ其景況ヲ詳記シ緩急機ヲ愆ラス之ヲ勧業課ニ報道スヘシ
第六則 通信ヲ分テ臨時報月報ノ二種トス但勧業課ニ於テハ別ニ年報ヲ編製シテ勧農局ニ送致シ併セテ全道各地ニ報告スヘシ
第十五則 通信者ハ給料ヲ与ヘス月報罫紙一葉ニ金二銭ノ割ヲ以手数料ヲ給スヘシ又臨時報ノ如キハ一事件ヲ五銭ト定ム若其報知セル事件確実ナラサルトキハ手数料ヲ払ハサルヘシ
第十八則 通信者能ク農況ヲ叙述シ其機ヲ愆ラス確実ノ報道ヲ為シ為ニ農業上ノ裨益ヲ与ルノ効ヲ奏スル抜群ノ者ニハ其手数料ノ外別ニ賞金ヲ与フル事アルヘシ
第十九則 農業ハ商工業ト相待テ離レサル者ナレハ通信者ハ常ニ商工業ニモ注意シ之ヲ報道スルヲ要ス
このように通信者は,勧業課の通信委員の手足たるべき下部組織として位置づけられ,勧農に精通した篤農家から起用しようとした。これは各府県とも共通していることであるが,実際には戸長や郡役所の書記が兼務するという措置をとる府県が少なくなかった(及川章夫『日本農業統計調査史』農林統計協会 1993)。開拓使においても,戸長や郡役所の吏員が通信員を兼ねていたことを裏付ける資料がある。
1880年(明13)8月十勝方面から始まった蝗の被害は,全道に蔓延したため,開拓使札幌勧業係は,このときの被害状況を『北海道蝗害報告書』(1882年刊)にまとめている。総論,緒言に「此凶報一タヒ達スルヤ忽チ雇外国教師及ヒ課員等ヲ派遣シ」あるいは「此虫害ノ報道ヲ得ルヤ夙ニ官吏ヲ実地ニ派遣シ」とあり,本庁が何らかの報告を受けて,課員を現地に派遣したことがわかる。臨時報の内容は通信規則第七則で,異常気象や自然災害によって農業被害があった場合と,植物の虫害あるいは家畜伝染病の徴候がある場合,と規定されていたことから,本庁への報告は通信者による臨時報だったことが考えられる。『北海道蝗害報告書』のほとんどは,事件が起きてから派遣された課員による報告のようであるが,中には農事通信者や,戸長,郡長からの報告もみられる。これら戸長郡長から報告があった地域が,戸長や郡役所の吏員が通信員を兼務していた可能性が高い。
「札幌県管内農商務通信規則」
1881年(明14)農商務省の創設にともない,83年12月28日農商務省達第21号「農商務通信規則」が制定され,84年11月24日県乙第271号「札幌県管内農商務通信規則」が制定された。
県管内規則では,農商務通信区を設け(第一条),各郡区書記御用係の内一名ないし二名の農商務通信員を置き通信区に係る一切の通信を担当させた(第二条)。そして郡区役所と町村との間に係る通信手続は郡区役所において適宜設ける(第五条)こととされた。これを受けて,1885年4月6日県乙第49号「郡区役所町村農商務通信準則」が制定された。
第一条 郡区役所ハ其事務ノ繁閑ヲ量リ通信区内ニ農商務通信分区ヲ定メ其名称ハ第一第二ノ番号ヲ以テ之ヲ推メルモノトス 但分区ノ数ハ部内戸長役場ノ数ニ超過スヘカラス
第二条 各分区ノ通信者ハ当分戸長若シクハ筆生ヲ以テ之ヲ兼務セシムルモノトス
第三条 郡区役所ニ於テハ各分区ニ於テ通信上ニ要スル費用ノ額ヲ定ムヘシ
第四条 郡区役所ニ於テハ本県ヘ報道スヘキ期日ニ原キ部内各分区ノ報道期ヲ定ムヘシ
第五条 郡区役所ニ於テハ毎年一回戸長諮問会等ノ節通信事項ニ関スル一切ノ件ヲ諮詢合議スルモノトス 但至急ヲ要スル事件アルトキハ臨時招集スルコトアルヘシ
準則では,農商務通信区内にさらに分区を設け,分区通信者は当分の間,戸長もしくは筆生が兼務するとした。通信分区の数は,戸長役場の数以内とされていることから,基本的には戸長役場を末端報告単位とした通信分区が設けられたとみてよい。また,通信上の必要経費,報道期限,通信事項の三点すなわち調査に関する権限は,郡区長に一任された。
準則が制定された4月から7月にかけて,小樽郡役所,室蘭郡役所,勇払郡役所,石狩郡役所,岩内古宇郡役所,岩内古平郡役所から,通信区内の分区設定,分区通信者,分区と郡区役所間の報道期,費用等について定めた「通信第□区町村農商務通信規程」や,「部内分区通信予算調」といった書類が勧業課に提出されている(『農商務通信書類』道文08636)。
このように札幌県における農商務通信は,戸長→郡役所→県という報告過程の中で,県管内の規則,郡区役所町村の準則,さらに部内分区の規程を設けて,通信報告を確保していた。
北海道庁の「農商務通信規則並様式」
1886年(明19)3月5日農商務省令第1号「農商務通信事項様式」が制定され,これを受けて,翌年4月28日道庁訓令第16号「農商務通信規則並様式」が改正された。これによって農商務通信員は,郡区書記一名ないし二名及び戸長と定められ,区内一切の通信事務を担当し,郡区長がこれを総督することとされた。また「農商務通信取調上必要ト認ムルトキハ区内当業者一名乃至三名ヲ限リ其通信ヲ嘱託スルコトヲ得 但此場合ニ於テハ其調査件数ノ多少ニ依リ相当ノ報酬金ヲ給与スルコトアルヘシ」という条項が新たに設けられた。さらにまた,農商務通信区が改正され,札幌を含む第一区に関していえば,「札幌区役所所轄 石狩国札幌区」と,改正前の「石狩国札幌区及ヒ札幌上川樺戸雨竜空知夕張六郡」に比べると,大幅に管轄区域が狭められた。嘱託員を設け,通信区域を狭めることで,通信員の任務の軽減と,通信の正確性の確保がはかられた。
1888年5月9日,嘱託の人数制限の上限は6名と,大幅に引き上げられたが(訓令第46号),89年5月18日には,嘱託の資格と人数制限に関する条項は削除された(訓令第24号)。
やがて1894年4月28日,統計報告に関する事務補助について,以下に示すような明確な規定が設けられた(訓令第21号)。
第四条 郡区長ハ統計報告ノ事務補助ノ為メ便宜区画ヲ設ケ其地方ニ於テ相当ノ名望アリテ実業ノ状況ニ精通シ且ツ統計調査ニ適スル者ヲ選ヒ当庁ノ認可ヲ経テ農商務統計調査委員ヲ嘱託スルコトヲ得
第五条 農商務統計調査委員ノ事務ハ左ノ如シ
一 統計報告材料ノ蒐集ニ補助ヲナスコト
一 蒐集セシ統計報告ノ適実ナルヤ否ヤノ協議ニ与カルコト
一 以上ノ調査ニ関シ意見アルトキハ当庁又ハ農商務省統計主任ヘ之ヲ開申スルコト
ここでは新たに農商務統計調査委員が設けられ,資格の面でも事務内容の面でも,かつての嘱託に比べると,はるかに多大の責務が課せられた。
その後四度の改正と,1897年11月2日道庁官制改正を受けて,1903年3月31日に適用されていた規則では,それまで通信事務の一切を総督していた郡区長の権限は,支庁長及び区長へと移された。そして新たに次の条項が設けられた。
第六条 函館札幌小樽ノ三区ニ農商務総計調査委員ヲ設ルノ必要アル時ハ其区長ヲシテ適任者ヲ選定セシメ当庁之ニ農商務統計調査委員ヲ嘱託ス
つまり函館・札幌・小樽の3区においては,区長に支庁長と同等の権限が与えられた(以上,橋場ゆみこ「明治期北海道における統計の形成過程と統計学の普及」『札幌の歴史』第36号)。
現在札幌市には,『統計報告 自大正六年至大正九年』(札幌区役所)と題した資料が残されている。内容は米,大豆,小豆,果実等農産物をはじめ,各種工産物,物価,職工労働者賃銭等の産業統計報告であり,農商務統計調査委員に委嘱して得た調査結果をもとに,区役所が道庁に提出していた統計報告綴りである。各報告は道庁あるいは札幌区役所の統計用紙にあらかじめ表題,調査項目,前年計等を印刷し,区役所が該当数字を書き込むという表式調査の原簿である。こうした表式調査は,1870年9月の「物産表」調査を起源としているが,農業生産統計における表式調査は,明治大正期を通して継続された(写真)。
農商務通信協議会及び勧業統計談話会
1890年10月,道庁第二部の主催により農商務通信協議会及勧業統計談話会が開かれた。同会には前述の水科七三郎が準備委員として評議問題の草案を作るなど,運営に深く関わっていた。彼は道庁在任期間すなわち1886年(明19)12月から98年(明31)12月まで,地理課,農商課,殖民課,拓殖課で殖民事業に従事した。水科殖民論の特徴は,気象観測データを統計分析することで,移住殖民を促す手だてとしていたことにあり,92年には転籍者と寄留者をも移住民に計上するよう,移住者戸口表調表式を改正している。したがって彼が直接関わった統計事業とは『道庁勧業年報』であり,『道庁統計書』の農商工に関する分野でもあった。農商務通信協議会及勧業統計談話会の趣旨,開会の経緯を,彼は次のように述べている。
…北海道庁に於て拓地殖民上特に必要と認定したるスタチスチックの材料をも併せて通信せしめ来りたるに,往々背理の調査を為し又は憶測の計数を掲げ,人を誤る者少からず。尤も中には稀に調査其当を得たるものあるも,北海全道を統計すれば遂に玉石混淆真偽錯綜の数字たるを免れず。故に大に之を改良せざれば,到底事物の盛衰消長行政の利害得失を判定するの標準と為す可らず。従来通信事項要解を配付し或は時に主任官を出張せしめ,稍改良の端緒を開きたるも未だ以て完全の域に達せず。此上益々改良を加へんと欲せば,郡区役所に於いて現に通信の事務を担当する郡区書記若くは傭員を召集し,彼我胸襟を披き質疑応答審議討論せば自他大に発明する所あるのみならず…疎隔の情を一掃し筆墨に尽し得ざる所は之を口頭に縷述するを得,通信上に於て本庁通信員と地方通信員間に一条の熟路を通じ,事意外に埒明好結果を収むるを得べし(「一のスタチスチック会」『スタチスチック雑誌』第55号 1890.11)。
ここで注目すべきは,「スタチスチック」が統計に替わる用語として使われていることと,「統計」が,単に統べ計る意味でしか使われていないことである。これは水科が共立統計学校で受けた教育であり,杉亨二が提唱した「スタチスチック」の定義でもあった。また水科は「背理の調査」による「憶測の計数」を否定し,これを改良しないことには利用するに値しないと考えるほど,「スタチスチック」に正確性を求めていた。そして彼は統計数値の正確を期すために,文書伝達や限られた主任官の出張では果たせなかった改善策として,直接通信事務の担当者と質疑応答や審議討論する場を設けることを考案したのであった。農商務通信協議会及勧業統計談話会では「スタチスチック」なる学問の普及が図られると同時に,より効果的な方法として,直接統計実務担当者に指導が行われた。
[図]