第1回北海道庁統計講習会
1895年(明28)8月スイス・ベルンで開催された国際統計協会会議において,1900年を期して各国一斉に世界人口センサスを行うことが決議され,日本に対しても国際統計協会から世界人口センサスへの加盟の勧誘があった。これをうけて,中央では,民間の統計団体による国勢調査促進運動が開始された。1899年6月東京統計協会と統計学社の協同で,第1回中央統計講習会が設立された。第1回講習会開会式で阪谷芳郎会長は次のように述べている。
…然る所まだ我が国に於きましては一番大切なる国勢調査「センサス」と云ふものが行はれて居ない,是非此「センサス」を行ひたいと云ふことは統計に熱心の者は皆熱望して居りますがこれは国家に大切なる事業であります,…併ながら…国勢調査と云ふことを愈々実行すると云ふ時には…最も必要急務なるのは統計の学問又統計の技術に明かなる人を沢山に要すると云ふことである,これ独り国勢調査ばかりで無い総て統計を確実ならしむるにも統計の学問並に技術の明かな者を沢山に養成しなければならぬ…
このように中央統計講習会は,国勢調査の早期実現と統計事業の発展のために,統計の知識や技術に明るい専門家を多数養成することを目的に開催された。
講習会は志願者を全国から募り,1899年から1906年にかけて6回開催された講習会には北海道からも毎回講習生が出席しており,証書を受けた者は延べにして817人に上った。講習生には会期末に学業試験を行い,合格者に講習証が授与されたが,合格者名簿によると,回を重ねるごとに道庁職員の成績は向上していた(「統計集誌」)。こうした動きを受けて,次第に地方でも統計講習会が開かれるようになり,1900年7月の宮城県を皮切りに始まった地方の統計講習会は,1910年までの問に40道府県に広がった。北海道では1906年9月3日から1週間,北海道庁第1回統計講習会が北海道庁議事堂を会場に開かれた。講師には内閣統計局から高橋二郎と関三吉郎が派遣され,講習学科は統計史,理論及び方法,デモグラフィー及社会統計,政治統計,経済統計,教育統計とし,講習人員は道庁吏員29,村吏員11,支庁員3,区吏員2,町吏員1のほか,農学生,御料局員,税関吏,商業会議所員,水産学校員等総計56人であった(『統計集誌』)。前述したように,札幌区では1907年5月に統計規程調査委員が置かれ,組織的に統計書の編纂の準備が始まろうとしていた。また,08年8月には『札幌商業会議所第1回年報』が刊行された。こうして北海道庁第1回統計講習会は,統計の専門家を養成したばかりでなく,区役所,商業会議所の統計書の編纂活動を開始させる引き金にもなった(表5)。
北海道統計協会の設立
また,道庁第1回統計講習会を機として,北海道統計協会が創立された。1906年9月7日の設立総会では,北海道統計協会の会則が定められ,「会員其他の通信論説又は質疑応答及有益なる統計学上の事項を記載したる雑誌を毎年四回刊行すること」とされ,同年11月『北海道統計協会雑誌』が創刊された。北海道統計協会の創立ならびに協会雑誌の創刊は,道庁の統計主任の杉浦久兼に負うところが大きいと,のちに統計学社社長の横山雅男は述懐している(『北海道統計』創刊号 1933.4)。
杉浦久兼は,水科と同じく共立統計学校を卒業し,鹿児島県の統計掛員,兵庫県姫路市播但鉄道会社,水産博覧会を経て,1897年10月北海道庁技手に任命された。彼は鹿児島県庁在任期間には統計主任として統計改善につとめており,その実績を買われてだったのか,道庁に赴任してからも,98年内務部庶務課兼農商課技手殖民部員,99年から1900年にかけては内務部統計主任,1905年には長官官房と,統計事業に従事した。北海道庁統計講習会ならびに北海道統計協会の創立は,彼によって主導された統計思想の普及,知識の錬磨を企図した活動であった。
『北海道統計協会雑誌』には,杉浦とともに舘彦五郎,西川作右衛門が関わっていた。道庁職員録と統計学社の会員名簿によると,舘彦五郎は1905年から07年にかけて,長官官房で統計事務に従事している。また西川作右衛門は,1902年から06年まで殖民部に在籍し,第17~19回(1903~06年)『道庁勧業年報』の調査編集に従事した(『道庁勧業年報』例言)。1907年杉浦と西川は相次いで病のため休職,辞職しており,『北海道統計協会雑誌』は1907年に第2号を発行した後,自然消滅したとされている。協会の主軸となる人物を欠いて協会の存続は困難となり,雑誌の編纂も途絶えたのだろう。管見の限りでは,『北海道統計協会雑誌』は第1,2号ともに未見である。
札幌統計研究会
北海道統計協会の活動が短命に終わったとはいえ,1906年の道庁統計講習会ならびに統計協会の設立は,官公吏以外の統計関係者にも統計普及の道を開くという効用をもたらした。1910年(明43)2月13日札幌統計研究会が設立された。発起人は道庁の村林直治,札幌区役所の佐瀬徳五郎,札幌商業会議所の中山潤の三氏であり,設立発起人会は札幌商業会議所で開かれた。同会は官公衙,銀行,会社等の統計主任者を中心に,半年前から設立計画が進められていた(『北タイ』1909.8.1)。ここでは設立発起人として道庁,区役所吏員のほかに,商業会議所,銀行,会社関係者が挙がっており,それまでの統計講習会が,区役所または道庁が組織的に開いていたのとは異なり,統計実務担当者からの自発的な活動であった点が注目される。明治20年に札幌に移植された統計学は,明治40年代に入りようやく統計が行政をけじめとして政策立案材料として不可欠であるとの認識が定着し,さらには統計実務担当者に統計の精度を求める意識が根付いたといえよう。
第2回道庁統計講習会
札幌では統計を政策の指針とする認識が定着したことに加えて,都市計画政策上の要請から,1909年(明42)3月札幌区区勢調査が実施されたことは前述したとおりである。こうした地域レベルでの人口センサスは,1907年から11年にかけて熊本市,東京市,神戸市,新潟県佐渡郡,京都市でも行われたが,ほとんどの地域で従来の推計現住人口を大幅に下回る結果となり,戸籍を基礎とする人口推計には多大の重複があることが証明された。そして正確な人口をとらえるために国勢調査を実施することの重要性が改めて立証されるという効果をもたらした。国勢調査実現への気運は盛り上がり,政界民間の強い要望に呼応して1910年5月27日国勢調査準備委員会官制(勅令第233号)が公布された。これにともない「地方統計講習ニ関スル建議案」が提出され,国勢調査に関する準備は大きく進展した。1911年4月桂首相は,地方長官会議で国勢調査の凖備に関して,「政府は早晩之を施行するの方針を以て」との訓示を行うまでに至り,同年7月から11月にかけて国勢調査の下準備を目的に,地方の統計講習が行われた。10月には「第二回道庁統計講習会」が道会議事堂で開かれ,講師に内閣統計局審査官の横山雅男が派遣された。会期は10月4日より一週間で,講話の内容は統計学の一般概念および国勢調査の大要であった。講習生は道庁各支庁区役所町村吏員ならびに一般の有志者等129人と,第1回講習会に比べると二倍以上の参加者があった。講習会の冒頭で,横山は北海道の統計事情を振り返った後,次のように述べた。
…今や時機到来第二回の講習会の開設を見るに至り…今回の如く官民各方面の人百二十余名の多数を網羅したるは,統計其者の目的を達するに庶幾きものといふべし。蓋し統計なるものは一局部の人のみにては其効果を奏し難く,上下戮力所謂る衆知衆力を集めて始めて其の目的を達するものなれば…殊に本道は故長官の遺されたる十五年計画を年々予期の如く実行して,其拓殖政策の根本を確立せんには取りも直さず道庁の指針たるべき本道経済の収支統計をして正確明瞭ならしめざる可からず。… (小樽新聞 1911.10.5)
このように横山は,統計を,故河島長官の十五年計画に基づく拓殖政策の指針とすることを呼びかけることで,その重要性を説いた。
国勢調査の推進運動は地方にまで波及し,いよいよ実現するかに見えたが,結局調査は財政難を理由に先延ばしされた。1917年第39回特別議会で寺内内閣がついに国勢調査の断行の決意を固め,1920年10月1日第1回国勢調査実施の運びとなった。調査結果は,はじめて日本の信頼できる人口数を確立したにとどまらず,それ以後の各種統計調査の発展をも促し,国民に対する統計思想の普及に貢献したという点においても,その意義は大きいものであった(以上,橋場ゆみこ「北海道にみる国勢調査前史-明治期札幌区における統計書の編纂と統計学の普及-」『札幌の歴史』第37号)。