松本藩の筑摩郡・安曇郡のそれぞれの組内の諸村を管轄するために、はじめは「組手代」が置かれます。「組手代」は、のちに大庄屋(おおじょうや)となります。
享保11年に、松本藩の領主戸田氏は、大庄屋宛にだした「覚」のなかで、「これまでの組手代を大庄屋と唱え、村々の名主を庄屋と唱え申すべきこと」と指示をだしています。
大庄屋は、藩から一定の権限と待遇が付与され、組内支配では、村役人よりも多大な権限が認められていました。
組の代表である大庄屋の職務は、組内取り締まり、用水・道路などの普請入用割、年貢の割付や取りたて、藩からの布達の組内への伝達、各村々からの諸願書などの処理でした。また、城下に設置された大庄屋会所に詰めて、郷村からの願書・届出の決裁、命令や指示の受領とその処理もおこないました。
松本市域に関係する筑摩郡内の組の大庄屋の交代は、代々世襲となることがほとんどでした。庄内組の場合も、元禄期から幕末維新期まで、白板村の折井家が代々つとめています。
収録した弘化四、五年の御用留を書いたのは、時期的にみて、折井伴右衛門正我だと考えられます。本書の「御用留」の裏表紙には、「折井伴右衛門」と書かれています。この折井伴右衛門正我は、嘉永3年、本書収録の「御用留」を記した2年後に亡くなっています。