[解説]

寛保二戌年水害御届書
真田宝物館 降幡浩樹

 寛保2年(1742)8月1日の水害による幕府への被害届。被害届は、松代城下と領内の二つに分けて行われました。本史料はそのうちの城下の被害届。日付は8月21日、水害から20日後に提出されたものです。
 被害の概要は、本丸・二の丸・三の丸ならびに居宅は床上3尺が浸水し、場所によっては4、5尺まで泥水が押しこみました。急に水が押しかけたので防ぎようがなく、城詰御用米蔵にも泥水が押しこみ、使えなくなりました。本丸東方の石垣が4間崩れ、南方の枡形石垣もはらみだしました。さらに城付きの武具蔵へも砂泥が入り、武具も一部使えなくなりました。城下の被害は、侍屋敷113軒に泥砂が押しこみ大破。城下の橋5ヶ所が流されました。流された家は75軒、潰れた家は106軒。流死者は39人。流死馬が15匹と報告されています。
 松代藩ではこの水害をきっかけに、城や城下を水害から守るため、千曲川の本瀬を北に付け替える「瀬直し」を延享4年(1747)頃から着手したとされています。