[解説]

朝陽館漫筆(千曲川の改修工事)
真田宝物館 降幡浩樹

 寛保2年(1742)8月1日午後8時頃、大雨によるで浸水で松代城は床上6尺(約1.8m)まで水があがった。このため翌2日、藩主は船で西条村の開善寺へ避難しました。藩では、松代城及び城下の水害を防ぐため、原八郎五郎の献策を受け、千曲川本瀬の流れを付け替える「瀬直し(瀬替えとも)」を行いました。瀬直しは、赤坂の渡し場付近から堀川を掘り本瀬とする普請で、延享4年(1747)に着手されたといわれています。
 この記録は、松代藩士鎌原桐山の『朝陽館漫筆』に収められているものです。鎌原桐山は家老職を務め、藩の碩学といわれた彼の見聞録(全162巻)が『朝陽館漫筆』です。この漫録には題がないため、「千曲川の改修工事」と仮にタイトルをつけました。これによれば、松代から矢代宿に向かう北国脇往還の道も、「瀬直し」によって大きく変わったことがわかります。昔は妻女山を越え、土口坂から雨宮 矢代へと通行していましたが、今は妻女山の麓に近いところから岩野村を通って土口へと通る、とあります。18世紀はじめ(文化・文政期)には、道の跡は一面耕地と景観が一変した様子が書かれています。