「六大巡行における天皇像は、天皇の諸行為と地方官心得書や先発官による府県の巡行準備への指導から、支配の正統性と仁恵深い訓徳を備えた天皇像であることは一貫しているが」(『明治六大巡行-地方の布達と人々の対応-』)、明治5年には「頑固之風習一洗」、明治9年にも「固陋」な人民を「開明」に進める意図があった。
明治11年にはこれが変化し、「政府は親しく地方民情を問う天皇像を前面に押し出し、そのため「人民ノ困苦迷惑」にならないように準備するよう、先発官が地方官を厳しく指導した。」(前掲書)この巡行以降、民情を問う天皇像が徹底して強調された。
巡行と民衆との関係においても、地方官が奉祝をうたい国旗・提灯や小学生の集団奉迎を準備させたことに呼応し、人々も小学生の洋服や袴を新調し、地域の意思で行在所として小学校の洋風校舎建設や、花火打ち上げ、国旗購入などに積極的に動く姿が「龍駕の跡」の随所に見られる。人々にとって巡行は民衆的祝祭となるとともに、天皇に対する人々の好感度が高まり、天皇への尊崇の念を体得していったといわれる。
人々の天皇に対する好意を抱かせつつ尊崇の念を浸透させた六大巡行は、近代天皇制国家の精神的礎形成に大きな役割を果たしたのであった。
羽賀祥二によれば、昭和8年に明治天皇の足跡の最初の史跡指定がなされてから敗戦直前まで「聖跡」の指定が続けられた。この過程で天皇の神話伝説が創り出され、「神として鎮座する明治神宮を頂点にし、全国の千数百ヶ所の「聖跡」とそこに立てられた記念碑を底辺とした、明治天皇顕彰の体系が1930年代後半、大日本帝国の膨張しきった時期にはその中核として形成されていた」と述べている。国家が国民の支持を必要とするとき、明治天皇の巡行が呼び出されたのである。
戦時中の昭和18年、県立長野図書館長であった乙部泉三郎は明治13年の松本巡行についてラジオ放送で「…畏くも陛下が人民の生活を御覧になられた一方におきましては、人民は又思いがけなくも一天万乗の大君に咫尺(しせき)し奉り御聖徳の宏大無辺なるに深く感激し、此の大君の御為には身命を捧げんとする覚悟を新たにしたのであります。」と述べている。この天皇像が、昭和18年当時、国民を戦争に動員するために重要なキーワード、すなわち「天皇陛下のため」という建前を可能にしたといわれる。
六大巡行で明治政府が標榜し続けた民情を問う天皇像はここに伝説となった。この伝説の天皇像は、敗戦後、政府が最も国民の支持を必要とした時、すなわち昭和21年からの約10年間、昭和天皇の国内巡行として再登場した。