○埴科郡矢代

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 坂本へは3里あります。昔は「社」あるいは「屋代」(注1)とも書きました。矢代宿は、8丁ほどの間が、にぎやかな町通りです。町の裏には多くの農家が散在しています。この宿は一重山のふもとにあり、西には千曲川が流れています。
地名について
 三代実録の貞観8年2月には矢代寺預定額うんぬんとあります。社は屋代ともいいます。古代、土地をはらい清めて斎場をつくり神につかえ祈る儀式がありました。その斎場を「ユミバ」などといっていました。斎場を「やしろ」と称するようになったのは斎場が宮殿へと変わったからだといわれています。古語に「やしろ」というのは「御手代」「御杖城」などというように。
 
 このあたりには、養蚕農家が多くあります。木曽の山中や、山間部で田畑が少ない村では、養蚕をして、生活の助けにしています。
 矢代では、繭ができる前の時期にあたり、どの家もさわがしく、忙しそうでした。老婦から女の子まで雇われ、桑の運搬や松の枝の折敷(注2)を手に携えるなどして働いていました。故郷では見慣れない産業であり、めずらしい風景です。
 次に、養蚕について聞いたことを記します。
 蚕種紙に生み付かせた蚕の卵が、春の穀雨の頃に生まれることを「帰る」といいます。一番、二番などと別けて折敷へ入れ、桑の葉を細かく切って与えます。このときの蚕を黒子(注3)、一つすべ、などといいます。
 蚕は桑を食べないときが4回あります。この時期を眠る(注4)、淀む、休むなどといいます。2回目の休みを高休み、二度居、たけの休みなどといいます。3回目の休みを、ふなの休みといいます。すべての休みのときには、桑の与え方を調節します。
 3回目の休みのあと次第に大きくなります。外の竹簾様のものに移し、桑の葉を次々と与えます。4回目の休みを大眠とか、にわの休みといい、蚕が起きる時を予想して、次の準備をします。起きてからは、桑を与える回数がより多くなり、ますます忙しくなります。
 繭を作るときの蚕を、はい子といいます。広いおおいの中に椎柴などを敷き入れます。その上に蚕を置き、藁をおおいとしてかぶせ、繭を作らせます。4、5日してから繭を1つ1つ取出します。
 繭を張らせる装置を蔟(ぞく)(注5)といいます。蚕種を採る場合は、蔟に張られた繭から、形の良いものを選び出し、糸に括り、つるしておくと蛾が出てきます。繭から出てきた蛾のオスとメスを対にして紙の上に置いておくと、少しずつ卵を産み付けていきます。これをうわ子といいます。
 


(注1)現在は「屋代」と書きます。
(注2)蚕をそだてる床です。
(注3)卵からかえったばかりの蚕。蟻のように黒くて小さいので「蟻蚕」(ぎさん)ともいいます。
(注4)蚕が脱皮するために、桑を食べることをやめ、眠ったように静かにしている時期のことで、休み、トマリともいいます。蚕は4眠までします。1眠、獅子休み、獅子にとまる、獅子の居休み、ショミンなどともいい、蚕の幼虫が第1回目の脱皮をするときのことです。以下、2眠(鷹休み、鷹にとまる)、3眠(フナドマリ)、4眠(オオナラビ、ニワイ、庭にとまる)などがあります。
 
(注5)蔟は「まぶし」とも呼び、蚕が繭を作りやすくするための空間(蚕の巣)のある蚕具のことを指します。古くは、木の枝を束ねた粗朶蔟(そだぞく)を使いました。明治20年代 になると、藁を編んで連続した巣(折巣)を作り、蚕を入れました。戦後は、ボール紙で碁盤目状に作った区画蔟=回転まぶしが主流となり現在でも養蚕農家で使用されています。
 信州大学繊維学部では「蚕飼姫(こがいひめ)」と呼ばれる市民グループが、回転まぶしを使用して繭を生産しています(平成26年8月現在)。