○筑摩 苅屋原

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間の宿とす、三町程相対して巷をなす、会田宿ヘ一里十丁、反町村板
場・鳥居出を過て会田の宿にいたる、此辺ハ山間の小邑なれば、す
へての風俗質朴にて、堅実なる山賎のみ多くつどひ、諸国より善光
 
   (改頁)
 
寺へ参る旅人引もきらず、栗の強飯を以て苅谷原の名物とす、
○鷹巣根の古城 苅谷原より五、六町西の方にあり、むかし海野小太郎幸
継の五男、苅谷原五郎城主たり、其後太田弥助といふ者居住せ
り、太田道灌の一族なり、[弟共三男ともいふ、] 文明十八年鎌倉にて道灌討死
の砌、当国に落来り、小笠原に属し、大永三年癸未より当城主
たり、七百貫文を領し、小笠原家にて一の大身なり、此辺十六ヶ
村を領し、武功の者なり、天文廿一年、武田の軍勢小県郡よりせ
め入り、八月五日より合戦あり、甘利左衛門が手に米倉丹後といふ
者武略を運し、竹策を拵らへ仕寄とせし故に、日あら
ずして城際へ取詰る、城主是を追払ハんと、九度まで突て出けれども、
後詰なけれバ堪がたく、同十三日未の刻に城を払て討死し、
終に落城せしなり、竹束の事