○埴科郡矢代

   44左  
[坂本へ三里、昔ハ社又屋代とも書す、]八丁程相対して巷をなし、其余町裏に散在して農
家多し、此宿一重山の麓にて、西浦は千曲川北流す、
地名攷  
  按三代実録貞観八年二月矢代寺預定額[云々]、或云、社ハ屋代也、
  上古の時は地を払ひ、斎場を設て神を斎祈る儀あり、其斎場を
  ユミバなどいひしを、斎場をやしろといひしハ斎場もて宮殿に代し
  よりの義なり、[古語にやしろといひしハ御手代・御杖代などいふが如しといへり、]
此辺養蚕の家多し、木曽の山中、其外山間の田畠少き辺ハ、是を
いとなみて世を渡る扶とするも又優し、折から繭の揚り前とて、家毎
に閙ハしく、如何なる姥小女も雇れ、桑の持はこび松が枝の折敷など手々
に携へて、故郷にてハ見馴ぬ産業も又珍らかなり、其養育の始末を聞に、
  蚕種の紙に産付たるが、春穀雨の前後に生れ出るを帰るといふ、既に
 帰出て、一番二番などと別ち、折敷へ入、桑の葉を細かに割みあたふ、是
 を黒子とも一つすべ共いふ、又蚕なやみ、桑をしか/\食ハぬ事四度
 
   (改頁)
 
   46右  
 
 あり、是を眠るとも淀むとも休むともいふ、第二度目の休を高休とも二度
 居とも、たけの休共いふ、第三度目の休をふなの休といふ、惣て休の時桑を
 あてがふ事其加減あり、三どめの休の後次第に大になり、滋々多く
 成ゆゑ、外の竹簾やうの物に移し、桑の葉を割み製するにいとまなし、
 第四度目の休を大眠ともにわの休共いひて、追付起出べき時を伺ひ、
 其用意をなす、既に大眠起して後ハ、桑をくるゝ事前々よりハ多き故、
 桑を採製する事ます/\閙し、蚕繭を作る時をはい子といふ、広き葢
 の類に椎柴などの物を敷入て、ひきりたる蚕を置て藁を覆にして
 繭を張らすなり、四五日して後、まゆを一つづゝ放して取なり、繭はる物を簇と
 いふ、蚕種をとる事ハ簇物より形のよき蚕を撰んで糸に括り釣おけバ、
 蛾の蝶に成出る、牝牡を一つにして紙に移し置バ段々子を産つける
なり、是をうわ子といふ、
[以上]