[現代訳]

     御城下古法并
           抜書集
     市場古法書
            桜井氏蔵書
 
      【(朱書)目 録】
【(朱書)一】 一寛永 2乙酉年閏4月25日 横町の商売の事
【(朱書)二】 一寛文 4甲辰年1月13日  横町商売物13品禁止の事
【(朱書)三】 一享保 2酉年11月     在方および上下茶屋町禁止商売物の事
【(朱書)四】 一同  3戌年4月      在方塩・魚直買御差し止めの事
【(朱書)五】 一同  5庚子年7月     伝馬町塩・魚出入ならびに裁許写の事
【(朱書)六】 一正徳 年中         市運上の始末ならびに町割合の事
【(朱書)七】 一慶安 3庚寅年2月     桜町への新規袋茶許可の事
【(朱書)九】 一□…□(享保4)亥2月   上川路村に許可する商売物の事
【(朱書)八】 一□…□(正徳3年巳)5月10日 13町魚商人の肴買入方の事
【(朱書)十】 一□…□(享保)5子年   伝馬町と塩・魚訴訟についての始末書留書
            組頭と改めた事
【(朱書)十一】一享保13戌申年10月    八幡前寺社領の商物許可の事
【(朱書)十二】一同  9辰年12月27日  塩・魚を13町で取り扱うことについての書上の事
【(朱書)十三】一安永 4丁未年       市場の申合の事
【(朱書)十四】一安永 6酉年1月      13町市場申合之事
              【(朱書)「あわせて市場の廻り方書き、安永2己酉年」】
【(朱書)十五】一同  4未年4月      毛賀村仲五郎の塩扱いの事と仲五郎より
                       誤り証文および過料銭を取る事
【(朱書)十六】一同  6酉年        牟呂塩の事
【(朱書)十七】一享和 2戌年3月      歩銭抜け荷物の事
【(朱書)十八】一同    年9月      桜町土屋助蔵の柑子抜け荷の事
【(朱書)十九】一文化 5辰年9月      毛賀村甚右衛門の塩抜け荷の事
【(朱書)廿 】一同  7午年11月     市場の古法に 背いた者より過料銭を取
                       り、合わせて誤り証文を取る事
【(朱書)廿一】一同    年2月       他所へ行く魚荷物の中継庭銭定めの事
【(朱書)廿二】一同    年2月      峯高寺前の商い物の事合わせて堀端盛砂の事
【(朱書)廿三】一同    年2月      13町年行司始めの事
【(朱書)廿四】一□…□3月         市場古法に背いた本一孫三郎・本一金蔵
                       より過料銭を取る事
【(朱書)廿五】一□…□年11月       紙問屋青物問屋の事 
 
【(朱書)1○】中の横丁の商売物について、竪町の者や角屋の者たちが訴え出たことを調べた上で申し付けたこと
一竪町より申し出たことは、中の横町の商売物については、先の御領主様の御役人より13品の停止を申付けられたが、貞享元(1684)年より横町の者たちは、古法に背いて商売してきたので、だんだん竪町は盛らなくなった。古法の通り横町の商売をできないようにしたいと言った。
一角屋の者たちが言うには、古来より竪町と同じように商売をして、役儀を勤めてきた。先の領主の御役人様より新法において、横町の商売を停止するように申付けられた。双方を召し出して、言い分を聞き書き取った。
一横町は竪町角屋の端までで、他の家はない。役儀等も借家人がいる時は勤め、店を明けた時は役儀を勤めないと、双方ともに言っている。そこで横町に借家人があっても裏屋と同じようだと聞くので、今後横町では役儀を勤めないで、角屋は横町の間口2間は商売物を出し、その他は前の御領主様の御役人より書き出された通り、13品は商売を禁止とする。但し橋は土地に付いている者なので、今までの通り角屋の者から懸かるべきこと
一横丁の角屋の者は、今まで勤めてきた役儀は、竪町で勤めるようにする。堀端通の者は今まで中の横町と申し合わせ役儀を勤めてきたが、これからは竪町へ入り今迄の役儀を勤めること
右の通り双方堅く守ること。若し違ったことをするものがあったら、調べた上できっと罰すること
    宝永2(1702)年閏4月25日  杉本 所左衛門
                       束原 市右衛門
                        知久町通り
                        本町通り
                        池田町通り
                        松尾町通り
                        大横町通り
                     右町中
                       年 寄
                       問 屋
                       庄 屋
 
【(朱書)2 ○】     定
一穀類  一塩  一魚鳥  一青物類  加えて豆腐・こんにゃく  一太と物一くり綿
一麻布  一鉄類 一紙  一細物類  一たばこ 一他国より来た笠 
一藁の類
右の品々は、中の横町において商売することを、堅く禁止する。若しこれに背く者があったら、大屋にまで過銭を申し付けるものである。
    寛文4(1666)年1月13日   進 藤 源 助  書判
                         飯田 町年寄
                            問 屋
                            肝 煎 へ
 
【(朱書)3 ○】 享保2(1717)年11月に書いて出した覚え書
一村々の街道へ近年百姓家が数多く建ち、いろいろな商売が入り混じり、乱れてきていると聞いている。これにより村方にふさわしい商売を10か条許可する。その他は禁止とする。
一大工・桶屋・鍛冶屋・紺屋等の職人は、今までやってきた者は特別である。今後村々で新たにその職をすることは禁止である。
一これから街道筋へ新しく家を作ることは禁止する。若しどうしても必要で家を建てる場合、願い出てその内容によって許可をする。
一上飯田村の内箕瀬町は、城下町の内であるので特別とする。山村の内上下茶屋町・上飯田村の内愛宕坂は、御城下であるので別に商売を許可し、停止の商売物の書き付けを出すことにする。百姓家の店の商売物は、左の通り
一煮売物  一餅屋  一請け酒  一刻みたばこ  一きせる火縄 一豆腐こんにゃく 一ところてん  一菓子類  一草履・沓・草鞋   一調合薬  合わせて10か条
右のほかは禁止である。
    享保2年11月 日        杉本所左衛門
                     黒須卯太右衛門
   山村の内上下の茶屋町と愛宕坂の禁止する商売物の覚え
一白木  一古手  一呉服類  一くり綿  一味噌・塩  
一自分で絞った油  一太と物  但し壱反以下の切り売りは特別によい  一糀(こうじ)  一椀屋
一紙類 但し小売りは特別に許す  一新しい鍋・やかん  一畳表類  一穀類
一魚屋  一お茶屋  但し小売りは格別である
合わせて 15か条
右の通り禁止する。そのほか新しく家を作ることや職人については、村々へ出す書き付けの通りに心得ること
    享保2年11月         杉本所左衛門
                    黒須卯太右衛門
 
右の通り村々へ指示し、町方へは書き付けを下された。上川路村・市田原町は宿場であるので、旅人入用の物は許可される。そのうち塩・茶・魚については、飯田町より買い請けるようにと指示された。
 
【(朱書)4 ○】享保3(1718)年13町より指し上げた願書の覚え
        恐れながら口上書を以て訴訟すること
一当地の塩・魚・茶市については、城下13町の助けとなるものです。1町で2日ずつ廻し商売をしてきました。右の内袋茶は、慶安年中脇坂淡路守様の御代に、桜町を新しく作った時、賑いのために13町に断って、売買を許可しました。
一近年村々の街道に、新しい住居が出来ることについて、去年の冬に御定書をいただき、ありがたく思っています。しかし街道で塩荷物・味噌・焼き塩などと言って売っている者があります。今後街道で紛らわしく商売をすれば、元々あった店と同じようになってしまいます。申上げたように街道において、塩荷物を買うことをすれば、近くの他領又は奥筋よりつけてきた穀物類を、町で塩荷物に引き替えてきましたが、町を通り抜け途中で荷替えをしたり買い求めたりすると、街道の売買になり大変迷惑に思います。ですから街道筋で売買しないようにお願いしたいと思います。
一自分の馬で美濃(岐阜県)・三河(愛知県)または他領へ行き、必要な塩を取り寄せることは自由であると思いますが、市場のある町へ来る塩荷物を、街道でやたらに買うようになれば、御城下の市場は成り立たなくなります。今後そのようなことがないようにお願いします。
 右の通り恐れながらお聞き取りいただき、お慈悲をもって仰せ付けくださればありがたく思います。以上
   享保3戌年4月日              13町
 このように申上げるのは、毛賀村の弥五郎と申すものが、市場へ付けてきた荷物を1駄毛村で買い取りました。その時知久町1丁目の市場の時だったので、13町へ早速知らせがありました。13町の者たちが毛賀村へ行き、庄屋に断って訴状を差し上げました。よくよく聞いていただき、今後街道筋へ出て、市へ付けてきた塩・茶・魚を買わないように仰せ付けていただきたいと思います。
      5月29日
 
【(朱書)5 ○】享保5(1720)年6月15日の朝、桜町庄屋三太夫庄屋新六方へ参られ、尋ねられたことの覚え
一今朝うかがったことは、この間御支配様から塩のことについて、御公儀様へお願いをしたことについてです。支配下の者たちが言うには、今迄塩を売ってきたが、このごろ13町と申し合わせ、馬問屋では一切塩を売ってこなかったとのこと。ほかで売ってはいないと承知しており、難儀であると言っている。どんなわけでそのようになったのか、私は新役なので久内へも相談したら、この間病気であったというので、もよりでもあるので貴殿へ様子を尋ねようとうかがったということであった。
    庄屋新六これに答えて
一言っていることは委細承知している。馬問屋で塩を売らないことは古法もある。そこで13町の者たちが相談して、売らせないようにしている。仲買から買い次第、自由に調え売るようになっていると答えておいた。そこで仲買中へもあたってみると、これまた売らないことになっているとのこと、あなたへ聞いて安堵したと言っていた。その後新六が答えたことは、私たち一人で返事をすることはむずかしいので、十三町役人仲間へ話し、一両日の内に返答をしますと言ったら、三太夫は帰った。
一翌16日三太夫が来た。13町役人で会合して相談の上、問屋九郎平・庄屋新六が三太夫方へ返答した内容は、問屋場では古法にまかせ売ることはしない、仲買からは最初に新六が答えた通り、自由に調えられるようにするというものであった。右返答のため両人が出てきたと伝え退いた。
   同18日三太夫が来て言ったことの覚え
一問屋九郎平・庄屋新六両人方へ一時16日には、念を入れお願いのために尋ねていった。話したことを支配へも伝えた。右お礼として尋ねたと話し、退いた。
   右の通り会所において、対決の時申上げた。
 享保5年6月塩のことについて伝馬町と争いがあった。願書を差し上げた始末の覚え恐れながらお願い申し上げますこと
一御城下において古来より13町で市を廻してきた塩と魚について、去る戌年(享保3年)にもお願いをし、仰せつけなられた通り、13町の商売物でございます。もちろん町の市のほかに御領分の街道での荷替え等までも、右の2品については聞き届けていただき、仰せ付けてくださいました。
一今月15日朝伝馬町1丁目甚兵衛・弥右衛門というものが、池田町伊平次方へやってきました。今朝塩荷物を3駄買い取ましたので、運上銭を持参しましたと言いました。弥平次は、売主は誰ですか又買い取り人はお二人ですかと尋ねました。二人が答えたことは、売主を確かめず塩は伝馬町1丁目・2丁目で調えたということでした。両町の境におろして置いてあったと答えました。弥平次は、昨日まで当町の市だったが、今朝より松尾町2丁目の市になっていると答えました。運上銭は請け取らず松尾町2丁目の市へ伝えると答えました。
一松尾町市場より右の訳について、与四右衛門・源五右衛門という二人の者が、伝馬町甚兵衛・弥右衛門方へ行きました。今朝届いた塩のことですが、13町でも市場の外で売買することはいけないことになっているが、古法に背いて下したことは承知できません。早速当市場へ出すように申したところ、甚兵衛・弥右衛門が言うには、塩は伝馬町両町におろしてあったものです。私たちは今日月行事にあたり、詳しいことはわかりません。水頭へ相談し、こちらから返答しますと言い帰ってしまいました。
一右の返答を待っていましたが、返事はありませんでした。そこで13町の者どもは相談 しました。同日に知久町平助・大横町源右衛門・本町治右衛門・池田町勘兵衛の4人が、使いとして伝馬町甚兵衛・弥右衛門方へ行き、右の塩のことについて先ほど言った通り古法があるので、早速市場へ出すようにと言いました。水頭の所へ行き聞くようにと言いましたが、両人よりこのことも達すようにと言って帰えりました。
一翌16日まで待っていましたが、返事がないので、13町よりの使いとして松尾町与四右衛門・大横丁傳四郎・本町徳左衛門・田町弥平太の4人の者が、伝馬町水頭の者たちへ右の塩を預り置くと言いましたが、水頭たちが答えて言うには、こちらの金銭によって調えた塩なので、言われる筋合いではない、このほかにも買い置いた塩荷物を、だんだん処理していくので、以後そのように心得るようにと理不尽な言い分でした。これによって13町の者たちは、そのままにしておくことができなくて、支配の役人中へ申し出ました。右の始終について伝馬町庄屋与右衛門方へ断り、13町の市場へ右の塩を出してくれるように言ったところ、それについて与右衛門方まで説明の口上を添えて出してほしいと言われました。与右衛門方へでかけ、13町の者たちがそのわけを伝えたところ、与右衛門が言うには、問屋久内へ相談して明朝返事をすると言うので、帰りました。そして翌17日朝本町通の庄屋庄兵衛方へ傳馬町治郎右衛門・兵左衛門・倉右衛門の3人がやってきて言うには、言ってこられた塩のことは、御公儀様へお願を申し上げたが、取り上げてもらえなかったので、覚悟をしてやったことです。思召しの通りにしてくださいとの返事をしてきました。このことについて13町の者たちは聞き、古法を破られただけでなく、勿論返答の趣旨も納得できないので、そのようにしがたく恐れながら口上書を以て申し上げました。
右の趣旨をお聞きいただいて、古法の通り仰せ付けて下されば、有難く思います。
                        知久町通
                        本町通り
                        番匠町通
  享保5年子6月日              大横町通
                        松尾町通
 右の通り13町の者たちお願いをし、恐れながら古法の通り仰せ付けてくだされば、有難く思います。
                     庄屋 新 六  印
                     同  源次郎  印
                     同  喜三郎  印
                     同  庄兵衛  印
                     問屋 文四郎  印
                     同  九郎平  印
 
    御奉行所様
 
 右5カ条の訴状を差上げました。わけは、(享保5年)春13町と仲買と馬問屋が申し合わせた上で、問屋より伝馬町筋へ塩を売らせないとしたことについて
一13町の塩商売はだんだん衰えてきているので、今年の春寄り合い相談した。伝馬町通りは近年塩の店が多くなり、穀類等荷替えや塩が自由に売買されている。つまり馬問屋より塩をずっと売っているためにだんだん繁昌するようになったと考える。勿論商売等はわからないものではあるが、馬問屋より売ってやっている塩は、市場へ付けて来た塩荷物を、その日売り余り、翌日の市場へ付送り売払っているが、所々より来る馬方たちは、逗留することを迷惑であると言っている。市場の繁昌のためなので、13町の者は馬問屋と相談の上、問屋へ預けておきこの塩を売り続けるので、市場で買い分けているのと同じことになる。そこで一切馬問屋より売らないように、13町の者たちは馬問屋たちと申し合わせた。ならびに魚は、古来は市廻りにしてきたが、塩荷物と違い小分けにしにくい。さらに生ものは扱っているうちに、様子が悪くなるので、13町より馬問屋へおろし買い分けている。これも塩と同様に、今後伝馬町筋へ売らせないように申し合わせた。
一右の申し合わせにより、伝馬町は塩を調えることができないため、当5月に願書により御役人中へ願い出た。このことを桜町問屋久内・庄屋与右衛門両人より手紙で届けがあった。右の願いについて13町役人のうち、問屋九郎平・文四郎が御手代小針弥大夫殿・小森小右衛門殿御両人より呼ばれ、塩のことについて御尋ねがあった。古法の通りに申上げたが、その後伝馬町の願書は取り上げられなかったと承知している。そうしたところ6月15日塩荷物3駄を伝馬町が調えたと届があり、そのままにはしておけないので、願書を差し上げた。
一同じく27日杉本所左衛門様御屋敷で、同役の黒須卯太右衛門様・目付高原源八様・御町下代中の立会で、願書の趣旨について町役人と13町の者が呼び出されお尋ねがあった。これによって願書に3人の方々が裏書をして印をつき、13町へ渡してくれた。さっそく伝馬町役人中へ渡したところ、返答書は翌28日の晩方差し上下駄とのことだった。
  同月29日・7月1日両日御会所においての対決の節、
   塩並びに魚を13町へ付けてくるわけを申し上げた
一塩並びに魚を13町へ付けて来るわけは、かつては本町通は当国駒場村付近の馬、知久町通へは三州・根羽村・横畑村、番匠町通へは平谷村、松尾町通へは波合村、大横町通りへは三州武節村・津具村そのほかこぼれ馬、このように付けてきていた。運上に塩一人6升ずつ取って来た。ところが本町通へ付けて来た塩・魚荷物を番匠町通より買い分けなどせず、どの町もそのようであるので、13町の者たちが申合せた。それぞれ馬につけてきても村により過不足もあり、勿論それぞれの繁昌不繁昌もあるので、寛永年中(1624~1643)に知久町1丁目を初市とし、2日ずつ13町を廻して位置を立てることにした。そのうち大横町は上り市といった。もっとも運上塩は、春先永雨などで塩が不足するので、中馬の者たちは相対で運上を塩銭に直し、72文ずつに定め、その時より取って来た。3疋追いとなっていて、塩3駄についてどれくらいとして、今まで売買絵をしてきた。駄賃も3駄についてどれくらいとして値段を決めてきた。
一肴はかつて中荷片馬または、1駄にてつけてきた。所々繁昌するところが出てきたので、2駄追いや3駄追いにも付けてくるようになった。この出所は三州吉田を専らとして付けてきた。尾州名古屋からも付けて来た。このことから塩に準じて市を廻した。運上銭1駄について24文とってきた。ところが市場仲買・馬問屋・中馬追・13町で申し合わせ、馬問屋で買い分けをすることになった。問屋場で買い分けをするわけは、多く余り肴を市場で取りうことは難しく、そのうえ馬方たちも迷惑だと聞いたので、馬問屋場で13町の商人たちが買い分けをすることになった。
この二つの品について二日市にすることについて対決をした。所々伝馬町の申分を御聞届けに成られないということだった。
   塩のことについて伝馬町より申し上げたことは、市場でも馬問屋でも買い分けをしてきたと言ったが、13町へ尋ねられたので馬問屋たちが言ったこと
一塩については伝馬町より、市場にて買い分けをしてきたと言ったが、古法があるので、そのようなことはかつてなかった、馬問屋よりは近年売ったことがあった。今年の春に13町の者たちが伝馬町筋へ塩を売ったのは、市場の売り余り塩を市廻りにするということだったためである。馬問屋たちは相談して、古法にあることなので、今後売らないようにするので、余り塩を今までのように預からせてほしいと返答した。余り塩といっても、塩は70~80駄、あるいは100駄来て、残らず売れてしまうこともある。又は20~30駄来る塩の内、ようよう4~5駄くらいしか売れないこともある。この余り塩は馬問屋へ預けておく、そのうち馬方たちから売りつくしてくれと言うものがあれば、少し値段を安くして売りつくすこともある。この塩は1回市場の法に沿って扱われているので、仲買より売ってもよいという同意があれば、伝馬町筋へも売ってきた。仲買たちが言うには、市場の法もあると言っても、余り塩を売りつくしてくれと言われれば、仲買の買分より下値でも調えているので、この塩を伝馬町筋へ売られては市場で買い分けをするものより劣っているように思われてしまう。今後仲買に片付られるかまたは、馬問屋までとするか、どちらか一方に決めてほしいということなので、今後は伝馬町へは売らないようにするので、余り塩を預らせてほしいということで、伝馬町筋へ売ることをやめることにした。
一馬問屋たちが言った通り、伝馬町筋へ塩を売ることをやめにするということだが、余り塩は仕切塩で馬問屋場にあるので伝馬町へ売った。伝馬町は近年塩の店が多くなり、松本方面へ行く入り口であるので、だんだん塩商売が盛んになった。塩とお茶と魚については、13町の町が始まった時からの商売物である。右の3品の内袋茶だけは、先御城主脇坂淡路守様の代に、桜町へ許可されたものである。塩と肴は13町の商売物である。特に古法にある商売物である。しかし余り塩が当日の市場より翌日の市場へ、段々付け廻しをすると、馬方たちが町に留まることを迷惑がるので、13町の者たちは馬問屋とも相談の上、市場繁盛のため問屋預りにさせ、右の塩問屋たちから伝馬町筋へ売るので、13町は今年の春に相談をした。余り塩は市場へ古法の通り市を廻すようにし、伝馬町へ塩は売らないようにする。だから余り塩を預からせてほしいと問屋たちが言うので、古法の通り余り塩を市場へ廻すことにする。どの塩を伝馬町へ売るようにするか、近年売っている塩なので、市場で買い分けても問屋場で買っても、言うことは何もない。そのほかの商売物のうち、穀類・木綿・くり綿・小間物類は近年だんだん繁昌していても特に言うことはない。しかし塩については古来より運上物であり、馬問屋共たちはこのことを心得て伝馬町へ売ってきた。このようなことは伝馬町の者たちは知らないので、塩は問屋売りであると心得ていると思います。
一伝馬町より塩売の仕切を差し上へ、市場で買い分けている証拠にされたが、対決の時とりあげられなかった。13町の申分を古法の通り聞き届けてくださり、それ以後御裁許状にも市場買い分けは堅く禁止するよう仰せつけられた。
 
右の条々は後のためこのようである。以上
 
    享保5庚子年7月日      福住兵治郎
                       則甲  花押
                   山村九郎右衛門
                       長基  花押
                   太田九郎平
                       秀皎  花押
                   野原文四郎
                       政方  花押
                   相原庄兵衛
                       正信  花押
                   山村源次郎
                       長房  花押
                   齊藤新六
                       良顕  花押
   本町通・知久町通・番匠通・大横町通・松尾町通 
   右の13町と伝馬町と、塩および肴の売買について争った裁許の覚
一塩および魚の城下町における売買については、かつては尾州・三州へ通路の村々の中馬追いが出所より、塩と魚の荷物を城下の本町通・知久町通・番匠町通・大横丁通・松尾町通などへつけてきて、その町の中で買い分けて他の町が入ることはなかった。13町の者たちが申し合わせ、寛永年中より2日ずつ廻り市を仕来り、塩と肴の運上銭は古来の法によって、13町の市場の町へ納めるようにしてきたと13町の者たちは言っている。伝馬町の者が言うには、かつて伝馬町へも塩と肴の荷物が市廻りにて付けて来たが、、もともと貧しい町なので市場はたたなかったということだ。しかし寛永年中より2日市に定まり、それから市場は立たず運上銭はとってこなかった。伝馬町の申し分は不法なので、今後市廻り運上銭を納めることは、13町に限るようにすること。
一2つの品物のうち塩荷物を、13町の内の市場へつけてきたら、13町の商人たちが買い分けをし、その日の市場で塩荷が多く売れ残ったら、翌日の市の町へ廻わし買い分けをするようにしていたところ、馬方たちは翌日まで逗留することが迷惑だと言うので、13町で相談をし、余り塩は馬問屋方へ卸すように申し合わせた。馬問屋たちは市場よ買い分けをして、自分の心得で伝馬町へも買い分けをするので、今年の春に改めて、市場の余り塩は問屋へ卸しても市場の法に任せ、13町のほかの者は買い分け仲間へ入れないと13町の者たちはいっていた。これに対し伝馬町より言うには、買い分けのことは市場でも問屋場でも、13町の者たちと一緒に買い分け商いをしてきたと言っていた。双方明らかにし、伝馬町の者が問屋場で調えたことは明らかであるが、市場にて調えたことはかつて聞いたことがないとのこと。今後市場の余り塩は馬問屋へ卸すことはやめにする。古法の通り市場で13町の商人たちが買い分けをし、余り塩があれば翌日の市場へ送ること
一魚については、寛永年中廻り市になった時、1~2年は市場へ卸し13町の者たちで買い分けをしたが、その後市場へ卸すことはなかった。残らず馬問屋へ卸し、13町の者たちが買い分けをし、伝馬町の者たちが肴商売をするのは13町の魚屋たちの売子の分で買い分けをしてきたと13町から言った。傳馬町が言うには、問屋場の肴の買い分けをすることは、以前は13町の者たちと一緒に問屋でくじ取をし買い分けていたが、近年は守られなくなって、問屋場で13町の者たちと奪い合いで買い分けをし、商いをしてきた。長年魚商売をしてきた者は多くいるが、売子ということはかつてなかったが、今年の春になって売子でないとすれば買い分けはできないと、差し押さえられるということがあったと言い、双方調べてたところ、売子ということは聞いていないということだった。前々の通り肴荷物は問屋場へ卸し、13町・伝馬町の商人ともどもに買い分けをすること
 このように塩荷物・肴荷物市場や問屋場で商人どもが買い分けるように裁許があった。後のため双方へ裁許状一通ずつ渡すので、永く違反はしないように
   享保5庚子年7月5日
                  黒須卯太右衛門  印
                  高原源八     印
                  杉本所左衛門   印
                  舘野太左衛門   印
                  阿久津四郎兵衛  印
                       本 町通
                       知久町通
                       番匠町通
                       大横町通
                       松尾町通
                   右13町の者どもへ
 
           天保4(1833)癸卯年
               9月これを写す
 
【(朱書)六 ○】
一城下町の市運上は、むかしより飯田へ塩・茶・肴の三つの品物は、馬方の心次第で何町へでもおろして売り払っていた。ところが知久町へ来る馬が全くなく、知久町が衰微の様になり、迷惑がって両問屋へ相談の上、市につける馬の割り当てを御役人中へ申し上げ認められた。
   松尾町通りは       浪合辺より来る馬
   池田町通り3町は     平谷辺より来る馬
   本町通りは        駒場辺より来る馬
   知久町通りは       横畑・根羽より来る馬
   大横町通りは       武節・津具からくる馬やその他の馬
右の通り決め、荷を付けて来た馬が宿にて売り払った。このように市場の割り当てを仰せ付けられ市へ馬をつけてきたが、大横町の馬宿は都合がよいので、こぼれ馬と名付けて皆大横町へ来るので、竪町はさびしくなってしまった。知久町庄屋与右衛門がこのことを申し出し、相談をしてきめた。寛永年中(1624~1643)にお願いしたところ、町御奉行下津谷金左衛門様が聞き届けてくださり、塩・茶・肴荷物は今後一町で2日ずつ市を立て、順々に馬を付けるようにと仰せ渡された。知久町1丁目より始めて松尾町1丁目を最後と決め、又知久町1丁目へ戻るというようにした。そのうち惣町上り市を2日大横町へ廻してくれた。このほか上下の横町は沓・草鞋・てんやものだけを売買するようにと仰せ付けられた。この時まで家ごとに店はなく、いろいろなものを売買してきたので、市のことを大切にしたものである。塩1駄について恵比寿塩1升ずつ市で取っておき、その町内の間口で割って分けていた。そのほか馬宿が古来より塩をはかる骨折分として、筵などをやっていた。
一市で恵比寿塩や筵払はむかしから取って来た。しかし、市でたびたびこのようにすることは難しいので1人で請負い、米に直して請け合うということで、大横町で請け始め、請け負った者は恵比寿塩を取りため、自由に売り払った。自由に売り払い暮に1年分恵比寿塩の代米として、6俵ずつ1町へ出していた。このことは良いことだが、すべての町で請負いになり町毎に請けることになる。
一市運上を右の通りに請けてきたが、はかり塩を止めて引受にし売買するようにするべきだと、馬方・馬宿・惣町ともに相談して、馬宿田町塩屋小右衛門・大横町又兵衛・本町2丁目塩屋嘉兵衛の3宿が相談をして決め、馬方1人で3疋ずつ追ってくると、塩・茶
 3升、筵払3升、合わせて3駄について6升を代に直し、72文払うことにした。但し1疋について24文の積りに定め、市町から取ってきた。これが運上と言うことになった。御地頭様へは差し上げず、町方へ取るようにしてきた。
一3問屋よりお願いしたことは町方の運上はむかしより取ってきたが、問屋たちは利益がないので、今後町中へ付けて来て卸す木綿・古手・繰綿・小間物は、問屋が取り扱いができるように仰せ付けてくれるよう願い上げたところ、御家老脇坂新左衛門様が取り成してくれ、御書付を下された。黒瀬より付けて来た茶まで問屋へ付け込むので、平町人はたいへん困窮になり、そのまま過ぎていくうちに、町御奉行が代り渡辺九兵衛様になった。その時池田町新井加兵衛がかかり荷の訴訟をしたところ、3か年の間願によって平町人の願いを聞き届けてくれ、問屋の書付は取り上げになり、平町人の願いの通りに 仰せ付けられた。 正徳年中のことであった。
 
【(朱書)七 ○】
一桜町は新しくできた町なので、商売してよいものを仰せ付けられた。書付を下されたのは、正徳5年改元して慶安と改り、同3年に書付を下された。
 
【(朱書)○】売買してよいもの
一袋茶類   一鍋釜類  
一奥馬(飯田より北へ向う馬)は、宿へ泊めてよい
奥馬の出入りをさせ、二つの品物を商売して、新しくできた町が賑わうようにともうしつけた。
    慶安3(1650)庚寅年2月日    渡辺九兵衛
                       脇坂内膳
                        桜町中へ
 
【(朱書)八 ○】魚の買い方についての定め
一越後鰯は何束入でも本数を改め、1束について5ツ引きで買うこと
一たいこ俵は何束入でも本数を改め、1束について2ツ引で買うこと
一篭鰯は何束入でも本数を改め、1束について2ツ引、ほかに2ツあわせて4ツで買うこと
一削は毎年2月10日前は一切買わないようにすること、11日より買い取り商売をすること
一干鱈は今迄通り、50枚について1枚取るようにすること
一名古屋吉田より来た干物、何束入でも1束について2枚引きに2枚合わせて、4枚引に買うこと、但し100文について2枚より高値の物は、取らないようにすること
一越後魚・塩物・干物は、吉田並に100文について20枚より下値のもの、50枚について1枚ずつ取り入れるようにすること
一問屋で値段がつかないものを、直ぐに借りないようにすること
一ふだん魚商売をしていない人へ、自分遣い用の魚を少しずつ問屋より分売することは、今後しないように問屋衆へ話をした。
一切り魚は一切とらいようにすること、残らずはね出すこと
一魚直段をつける時、入札については問屋の前へ出してないものは、一切入れないこと
一問屋へ魚が来た時、値段がつかないうちに持ち出すことは、一切してはいけない。駄数を改めて残らず集め、値段をつけること
右の通りにし違反をしないようにすること、互に仲間を吟味すること、もし背く者があったら、その人に買い分けをさせないこと、1か年に5~6度ずつ仲間の吟味をすること、
その寄合の時どのようなことがあっても出て行って、やり方の悪い者を吟味すること、後日のため問屋場へ立合い吟味の仕方は以上である。
    正徳3(1713)巳年5月10日      13町
                           魚商人
                           名前残らず
                               印形
 右書面も13町役人中にあり、ここに記さず商人申し合わせではあるが、市場品物上役人の中名に印形を取る
 
【(朱書)九 ○】
一近年村々では、往還道端に家をたて、御城下町同様に商売をして、だんだん乱れてきて町方みんな困窮になったので、集まって相談をし、訴え出ることを申し合わせた。但しこれは18町ほかの在郷の町である。
   箕瀬町    上飯田村ではあるが、昔からあった町である。
   愛宕坂    上飯田村の内でむかしここから愛宕山へ自由に上り下りできたという、70年来谷になり人も通らない
   愛宕山出崎  東片側の茶屋は元禄年中に建てられた
   坂頭の茶屋  元禄の初めに建てられた
   茶屋町上下  山村の内でむかしからだんだんできてきた
   谷川     牢守一類や非人小屋、むかしから牢屋があるので、河原者が置かれている。
  【(朱書)「上川路村のことである」】
      享保2(1717)酉年町中よりお願をした始末の改め書き
一村々の道端に家を建て、城下の商売を奪って店を出し、商いを手広くするので、町方が立ち行かなくなり願書を差し上げたら、だんだん吟味の上先規の之通仰せ付けられ、書付を下さった。
一箕瀬町・上下茶屋町・愛宕坂の商売物の事は、書付2通御奉行杉本所左衛門様・黒須卯太右衛門様より下さった。
一上川路村より享保3戌年に願い出たのは、上川路村は伊豆木・下条辺などへ行く時、いろいろな人々が通行し、人馬を差し出し宿継場と同じように勤めてきた。旅人の用事のため商物を免許してくれるように願い出たことにつき、許可された。上川路村へ書付をくださった。
        覚
一 銭  一 木綿  一 布  一 三尺手拭  
一 醤油 一 油   一 蝋燭 一 穀類 
一 塩  一 肴   一 袋茶  あわせて12品
 右の通り許可する。このうち塩・魚・袋茶は、むかしから城下市町へ付け出し、運上も納めているものなので、城下で調えてきて売るようにすること、右のほか呉服類・白木・油・酒造・鍋釜などは、一切禁止である。
    享保4(1719)亥年2月          杉本所左衛門
                           黒須卯太右衛門
 
【(朱書)十 ○】享保5(1720)子年6月塩・魚について、大争論があったことのあらましを書き留めたものである
一城下町の塩と魚については、むかしより13町の市廻りにしてきた市場の申し合わせの定書等がある。尾州・三州から来る荷物は、むかしから13町の中で自由に商売することができた。荷物の送り状を市場へ差し出して改め、裏書・裏印等を取り、運上を差し出すという古法があった。中馬荷物は、市場へ卸す筈になっているが、塩・魚ともに近年馬宿へ卸してきた。魚は本町1丁目馬問屋野田屋次郎右衛門方へ卸し、運上は市場の13町より訴訟を申し上げた。むかしより塩・魚は13町おろし1町で2日ずつ市場を立て、市付の馬を順々に廻して、13町の者たちが集まって買い分け、伝馬町・桜町へは市場よりわけてやったことは全くない。仲買より売ってきた。しかし今回むかしからの法を破り迷惑であると申し上げた。伝馬町からはむかしから市にて塩・魚ともに買い分けてきており、13町と同じようにしてきたと、問屋久内が返答書で申し上げた。6月29日町中評定所へ召し出され、終日対決を仰せ付けられた。町年寄山村九郎右衛門者病気で出てこなかった。そのほかの町役人は残らず出た。年寄福住兵次郎は御縁側の上、本町問屋九郎平・七町問屋文四郎・本町庄屋庄兵衛・知久町庄屋喜三郎・池田町庄屋源次郎・松尾町庄屋新六並びに13町の水頭26人、平町人は筵の上に詰め、西方に桜町の水頭ならびに伝馬町庄屋与右衛門、そのほか伝馬町水頭4人、平町人筵の上に詰めていた。正面の上座に御用人阿久沢四郎兵衛様・館野太左衛門様・大目付高原源八様・郡御奉行杉本所左衛門様・黒須卯太右衛門様、縁上に町下代小針弥太夫殿・小森小右衛門殿着座をし双方対決した。だんだん聞かれその日には済まなくて、翌7月朔日に終日対決を仰せ付けられ、吟味を受けた。知久町1丁目清次郎が無礼なことをし、縄を掛けられ手錠をかけられた。五人組お預かりとなった。伝馬町の者たちのうち、法に背いて塩を卸した発頭人茂右衛門・由右衛門両人縄を掛けられ、御牢へ入れられた。飯田町として前代未聞の争いであった。
一同7月5日争いが済み、裁許が仰せつけられた。清次郎も手鎖を許され、双方へ裁許状が1通ずつ下された。塩は市へ廻し13町の者たちが買い取り、仲買から伝馬町へ売るように仰せ付けられた。魚は問屋場で市と同じように買い分け、伝馬町も同様に買い分けするようにと仰せ付けられた。塩は問屋場で売るようにし、今後は伝馬町へ売ることは禁止である。本町太田九郎兵衛へ1通、桜町問屋久内へ1通、証文を下さって済んだ。細かくは前の通りである。
一桜町は以前から茶市をおこなっており、塩・魚は仲買より買い取りをしてきた。今度の争いにはかかわらなかった。庄屋三太夫も出てこなかった。享保10(1825)巳年より水頭を組頭と言うようになり、同11午年に飯田より付け出した荷物について、先荷を争ひ大島宿が飯島御役所へ願い出た。飯田御役人は添状を願い受け、市田原町へ一緒に願い出、飯田荷問屋より付出した荷物を、宿馬のほかには渡さないよう仰せ付けるよう願い出た。
 
【(朱書)十一 ○】享保13(1728)申年八幡宮寺社領への達書の写
一近年村々の道端へ新しい店を出し、諸商売が乱れてきたので、城下町は賑わいがなくなったと聞いている。詮議をして道筋にふさわしい商売品を定め、そのほかは禁止にする。嶋田村八幡前寺社領での商いについては、参詣の賑いのためむかしよりあると聞いているので、吟味し別に免許するので、自由である。
一他国よりくる塩・魚・袋茶、この3つは城下市町に限り卸してきているので、いよいよ堅く守るようにすること。
一公儀の御触をつたえておいたように、何ごとによらず新規の事を取り立てることは禁止になっているので、八幡宮の今迄の家並のほかに新規に建てる場合は、その趣旨を届出て差図にしたがうこと
   享保13戊申年10月       黒須卯太右衛門
                    阿久沢四郎兵衛
                嶋田村八幡別当  神宮寺
                同村同社神主   大平亀松
 
          覚
 
【(朱書)十二 ○】
一むかしより塩・魚の荷物は市場に限って卸し、そのほかへ卸すことは一切ない。魚については13町の者たちと一緒に卸し売買すること
一誰によらず尾州・三州より来た塩・魚の荷物は、荷主が先々にいて送ることになっていても、市場のほかは卸すことは駄目である。頭を立て送り状へ裏印を取り、その上において13町の内へ置くことは自由である。
一塩・魚の荷物が領分へ入り込むことは、自分の荷物を付けて来て、病馬になったり馬主が病気を煩ったりしたら、値段が下値となっても自由にしてよい。但し送り荷物は、馬方病気や病馬となっても、そこからほかの馬を雇っても、13町の内各々の所まで荷物の送り状を添えてやること。
一塩・魚の内自分入用は、領分の者が取り寄せることは、運上もいるということである。
 右の通りお尋ねによって書き上げ候た趣旨はこのようである。
  享保9(1724)年辰12月26日      庄屋  新 六
                         同断  源次郎
                         同断  喜三郎
                         同断  庄兵衛
                         問屋  文四郎
                         同断  九郎平
                         年寄  善右衛門
                         同断  九郎右衛門
  右の通り認め、差上げ御蔵に納る
 
【(朱書)十三 ○】市場の申し合わせのこと
一塩売買のことは、馬宿・荷主中・仲買市場へ出て、市場の者が立ち合い売買すること、勿論馬宿と仲買と内談での売買並びに貸し借りは堅くしないようにすること
一馬宿より塩・魚・蜜柑・生姜・諸事運上物何駄なのか市場で改めをすること、市場で送り状を改め、裏書を渡すこと、若し送り状がない時は、改めの書付を渡すこと
一荷物の間違いがないように市場より俵毎に札を付けること
一荷物が何駄でどこの誰へ売るのかと、その都度市場で改めて売ること、余りの荷物は市場へ改めて置いておくこと
一夕暮れに一日の余り塩が何駄とはっきりさせ、市場へ預けておくこと
一昼の内に市場の荷物を馬宿より気を付けること、夜に入り不足があったら、市場の方より勘定を立てること、改めがなければ市場のかかわりはな
一余り塩のことは、両日終わって、翌日4ツ時迄の内に、次の市場へ馬宿より送ること、その上市場の町の組頭より、帳面に高何駄渡すと記し印をつき形、次の組頭へ市場の者が帳面を持参すること
右の趣旨に背いたら、当番の市場より改め、1駄に付いて過料500文ずつとること、若し馬宿・仲買がなれあうようなことがあったなら、双方より過料500文ずつとること、
当番の市場は本書の定め通り改め、見逃しあるいは荷物市場へ卸さないで、そのまま付け送るようなことがあれば、12町より改め、双方より定めの通り過料を取ること
右の申し合わせの通り少しでも背くようなことがあれば、奥書の通り間違いなく差出しをすること、後日のため印を押し差し上げる
   安永4(1775)丁未年 本町1丁目初め13町残らず組頭
                両人惣代1人宛 惣名前はこれを略す
                御町年寄  山村金左衛門 殿
                同断    福住兵次郎  殿
                問屋    長瀬小左衛門 殿
                同断    山本治郎左衛門殿
                庄屋    窪田儀兵衛  殿
                同断    福住喜三郎  殿
                同断    黒沢弥平太  殿
                同断    岩崎宇左衛門 殿
  右の書面は福住兵次郎殿へ渡し、年寄である同家に預けておくと長瀬小左衛門殿被申し聞かされた
 
【(朱書)一四 ○】13町市場の申し合わせのこと
一13町の市場のいろいろな品物の運上については、古法がだんだん守られなくなってきて、去る未年(安永4年・1775)に改め、13町惣代・五人組1人ずつ・組頭へ申し渡す紙に印を押し写し書を渡しておいたところ、また市場・馬宿・仲買たちに不埒のことがあると聞いた。市場は大切な収入の入るところなので、市場請負所・荷宿・仲買の者ども心得違いで法を粗末にし乱すことは、13町が困窮するもとになるので、今回また古法の趣旨を左の通り申し渡す。
一塩・魚そのほか13町の運上物は残らず、古法の通り当日の市場へ卸し、荷宿・市場の者たちが立ち合い、売買すること
一入荷物が何駄、売り荷物が何駄、残り塩が何駄と改め、翌朝4ツ時に次の市場へ書き付けを届けること
一市場の印の無い塩を買い取らないこと、かつまた塩がなくても、仲買の者たちは毎日市場へ出て、相場を立て売買をすること
一俵塩を仲買から他所へ売ったら、荷歩銭を取り間違いなく出すようにすること、他所へ売った荷物は領地内で紛しいことがないように堅く守るべきこと
一送り状の付いている塩でも、市場へ卸し、荷問屋が立会の上払うべきこと
一近年宝塩が遣ひ塩に良いので、自分自分で取り寄せ、市場へは運上だけ差し出し、自由に取り扱うことは心得違で、宝塩は特別ではないので、ほかの塩と同じように古法の通り、馬宿につけて口銭を出し市場へ卸し、勿論運上銭も差し出し、市場の者・馬宿・仲買が立ち会い売買すること、遣い塩は特別で片馬以上今後注文しないこと
一魚ならびにそのほか市場の荷物の品々は、前々の通り送り状に市場の印之ない荷物は、請取らないようにすること
右の通に改め、今回さらに申し合わせたので、堅く守るべきこと、若し心得違で不法がある場合は、過料を決め、市場の者が不埒の過料銭1貫文、13町へ取ること、荷問屋ならびに仲買の者の不埒は過料500文市場へ取ること、いよいよ堅く古法の通り守ること
      安永6(1777)酉年正月    13町市場の者
                          仲買の者
                            馬宿
                            組頭
                         右捺印をした
              13町惣役人宛
 右正月20日講で組頭が相談して取り決め印を押した、そして町役人衆へ差し出した、役人衆から大切のことを申し渡され、町方の毎年の助けとなるものであるので、相互に心得違いのないように取り計らうこと、
      弘化4(1847)丁未年6月これを写す
 
【(朱書)十四末 ○】市場のことについての抜き書き
一安永2(1773)巳年9月市場を廻す手板が傷んできたので、新に板に彫り付けて改め、古いものは年寄へ預けた
   但し市場の申し合せの書の奥に、寛保1(1741)酉年に改め、このように彫り付けておいたとあった
      安永2巳年9月         13町
 
【(朱書)十五 ○】
一安永4(1775)未年4月毛賀村仲五郎が塩3駄調へたところ、本町二軒屋久四郎が毛賀村へ密かに送ったことがわかった。このことが明らかになり、市場の松尾町2丁目組頭勘左衛門が毛賀村へ行き、このことを言ったところ、仲五郎は承知せず、在方へ塩・魚を付けていくことは、前年の定めの古法には漏れているということを、届けて帰ってきた。だんだん改めていき、不調法のことを一札取り、過料銭を取り出させた。右の誤り証文は本町1丁目組頭平左衛門・五郎七宛に取って、五郎七へ預けておいた。右に付いて取り次をした久四郎は不埒なので、過料銭500文差し出させた。
一同年このような不埒が有るので、本覚寺において13町で申し合わせ、過料銭を定め、13町で1枚にまとめ、町々の五人組1人ずつ・組頭2人宛連印をし、町役人へ差し出した。福住兵次郎へ預けた。この書面の写は別記に有るので略す。
 
【(朱書)十六 ○】
一安永6(1778)酉年牟呂塩は各々へ余らせておくことはだめで、双方で言うので、本町1丁目組頭伊八が申し張り、自分遣の牟呂塩は自由にしてきたと言った。これを改め13町で一紙弐まとめ町役人へ差し出した。本町1丁目組頭伊八・五郎七・仲買惣代彦三郎が印をした。
       問屋桜井平七・野原文四郎 代
【(朱書)十七 ○】
一享和2(1802)戌年3月番匠町綿屋半三郎より出した荷物4駄、歩銭が巡りの者へ届かなかった。調べの上当時庄屋役をもしている半三郎の不埒なやり方、これによって荷物1駄に付いて1貫文ずつ、合わせて4貫文の過料を、荷歩方へ差し出した。
   但し去年暮より3問屋へ歩銭の集金を申し付けられ、今年正月より本町問屋長瀬五郎右衛門・池田町福沢弥平次・桜町松澤安左衛門支配の町廻り、桜町2丁目番屋善兵衛・本町長瀬借屋伊勢屋宗十郎の2人が担当である。
 
【(朱書)十八 ○】
一享和2戌年9月桜町の土屋助蔵と申す者が、遠州より柑子2駄調えて来た。この荷物を桜町1丁目和泉屋六右衛門方へ運び込み、そのうち1駄は本町1丁目万屋孫三郎が買い取った。9月26日に運び込み市場の知久町1丁目組頭殿岡屋十次郎が、榎屋庄兵衛方へ知らせた。そして知久町1丁目請負人の近江屋万治郎が、早速和泉屋六右衛門へかけ合った。そのままにしておきがたいので、13町中の組頭へ知らせ、本覚寺に集まり町役人中へ届け出た。13町役人が集まり相談の上、5町問屋松澤安左衛門・庄屋山村屋五右衛門へ通知し、六右衛門ならびに五人組へ13町の古法があることをわきまえないやり方であり、不調法のことを一札書いて差し出すきまりであり、過料は荷物1駄に付いて500文ずつ合わせて1貫文差し出すように申し付けた。桜町1丁目の者たちは相談し、六右衛門は心得違で不調法なので過料銭を差し出すべきであるが、誤り一札は用捨してほしいと言っていた。書付を出さないのでしばらく延ばし、猶又13町より催促したが、桜町1丁目の者たちは色々相談して書付を出さなかった。明らかな過ちのことことを申し張るので、六右衛門不調法について支配中へ申し付け不法がないようにするよう、桜町問屋・庄屋より一札をとり、13町役人へ差出し、過料銭1貫文六右衛門より出させた。
 これについて本町1丁目万屋孫三郎も不調法について、五人組が連印をして、一札ならびに過料銭1貫文差し出した。
 風聞によると
 この一件について桜町中でいろいろ相談し、袋茶・鍋釜については古来より桜町に免許されたものであるので、袋に入っている茶類はすべて気田茶・内津茶・宇治茶ならびに鍋釜は、13町での商売を差し留めてくれるように願い出ることを申し合わせたとのこと、あわせ評議でまとまらず止めたとのことである。桜町へ免許されている袋茶のことは、三州裏川辺より出た麦から造った小袋へ入れた斤茶である。古来塩・茶・魚の3種は13町の市付の大切なものであったところ、先御領主様の代に桜町を新しく作られ、在郷町と同じように城下町なみに諸商売することはできない筈にたっていたところ、伝馬町と同じように伝馬を仰せ付けられ、これによって袋茶と鍋釜の売買および奥馬宿が許可され書付をいただいた。袋茶というのは斤茶の一種だけである。気田茶・土味茶・黒瀬立茶・足助茶・内津茶・宇治茶は、むかしから市付のことはなかった。いくら桜町より願い出ても叶うことではない。若し時々御役人様の思し召により免許されたとしても、13町一同は承知できないことである。右の内気田茶は遠州より出る茶で、遠山廻りで運送される茶である。市付のない証拠である。黒瀬立茶・土味茶の類もむかしより13町市場はない品物なので、先年13町諸荷物が13町問屋役所付になった時、黒瀬茶等迄問屋役所へおろすこともあった。桜町への免許はその後のことである。鍋釜類の事も桜町へ免許されたが、13町伝馬町ともに禁止の品物ではない。もともと桜町が新しくできた町なので、免許の種類のほかの商売はやってはいけないことである。その頃は城下並に繁昌していたので、穀類も油商売もそのほかの諸商売も差し留めることもなかった。享和3(1803)癸亥年12月、知久町3丁目高遠屋八兵衛借屋新屋清兵衛・大横丁角屋方知久町3丁目綿屋与兵衛控え借屋綿屋甚平の両人が、袋茶を直買して、桜町へ過料銭を1人より500文ずつ差し出した。
 
【(朱書)○ 十九】
一文化5(1808)辰年9月、毛賀村甚右衛門・親田村仲馬より塩4俵直買したので、市場当番の松尾町1丁目よりだんだん掛け合い、郷宿川嶋屋庄兵衛の取扱いで内々に済ませ、過料5貫文と不調法についての一札を取った。
 
【(朱書)○ 廿】
一文化7(1810)午年11月18日、本町2丁目南側下角桜井三郎左衛門控家代板屋作兵衛借屋伊実屋万蔵が、魚荷物を売り初めたので、両問屋ならびに久四郎・庄治郎・弥五兵衛・三左衛門・清右衛門、紙問屋において市当番の知久町2丁目組頭そのほか松尾町1丁目・番匠町の3町分の市場帳面を立ち会って改めた。すると万蔵に限らず不法が多く見つかったので、13町の市場帳面を残らず取り集め、同日組頭皆本覚寺へ出て帳面を改めた。万蔵への入荷は、合わせて4駄2分5厘で、売れ残りを取り集め、その町の組頭文治郎・好右衛門が受け取り、売り付けた分を取り戻すように申し付けたところ、残りがあれば組頭へ差し出すけれども、売り付けた分は先方で遣ったものもあるし、塩出しにしたものもあるので、右の分については配慮してくれと、大屋作兵衛と五人組が出て願うので、それについては承知した。
一本町1丁目川嶋屋庄兵衛より八幡多風屋喜右衛門・伝馬町上野屋嘉兵衛へ取り次いだ分は、不調法であったとの答えがあった。
一池田町河内屋仁右衛門より八幡佐野屋惣助への取次が多くあり、申し開きがなかった。
一福住喜代蔵方へ付け送られた魚は、本町1丁目へ残らず差し出し、店へ売渡したとの答えがあった。
一知久町2丁目小木曽治右衛門方へ取り寄せた魚は、片馬は同人召仕に売るためであるとの答えがあった。
一同町の馬宿ひしや忠七方より八幡佐野屋宗助または箕瀬彦吉への取次、あるいは客荷の分は直売したということだ。
一池田町生坂屋与右衛門へ塩1駄、片馬駒場菱屋利吉より直接買い取ったということだ
一横丁の商売物は長年の間に乱れてきた。思いのほか不法があるということで、竪町より町役人へ訴え出た。10月25日に本覚寺へ寄り合い、福住太郎太夫・同喜代蔵・櫻井平七・福澤弥平治が出席し、角屋持ちの大屋並びに借屋を残らず呼出した。禁止の13品や寛文年中の進藤源助様の証文を読み聞かせ、2月2日までに商売改めをすること、青物商売を続けたいものは借屋替えをしても、日限までにきっと改めることを伝えた。古法をきっと守ることを申し渡した。
一峯高寺前のことについては、自由にしてよいと松尾町3丁目組頭新兵衛へ申し渡した。
一知久町1丁目の組頭は今日出てこなかったことについて、どうしたのかと町役人へ言ったところ、太郎太夫が言うには愛宕坂口の横丁はかつて申し立てがあったので、今朝問屋まで出ないと届けがあったとのこと。このことは下・中の横丁の角屋には借屋者はないけれど、13町と同様なので出るはずであると申し入れた。このことについて太郎太夫が言われたのは、全町内が心得違か、当時南側は私の家で北側は塩瀬小左衛門の家であった。帰宅の時私より小右衛門に伝え、なお町内へも申し達するように改められた。
一11月4日問屋宅へ組頭1人ずつ集められ、来年春より横町借屋の者へ、振商札を渡すのはやめにするので、取り次ぎをしないように申し渡した。
一11月5日本町2丁目万蔵より取り上げた魚を、1丁目の魚屋へ出し売り払うよう、組頭・大屋・五人組・当人へ申し付けた。
一11月9日塩並びに魚についての不法のことを、書付で過料を申し渡した。本覚寺へ当日福住太郎太夫・福住喜代蔵・桜井平七・福沢弥平治・森五兵衛・松尾町庄屋京四郎・組頭残らず出て、当人たちを呼出し、次のように申し渡した。
塩並びに魚の過料銭について
     知久町2          菱屋忠七
一 12駄2分5厘は八幡取次の荷物で、馬問屋の渡世をしていて作法も弁えながら、このようなことは大変不埒なので、過料銭1駄について1貫500文ずつ、合わせて18貫372文
                               同人
一 20駄4分5厘       市場抜け荷
  問屋渡世をしながら少しずつ古法を破り、たいへん不法なので、過料銭3貫文ずつ合わせて61貫350文2口合わせて、79貫722文
                本町1丁目         川嶋屋庄兵衛
一 19駄6分6厘       取次荷物
  古法があり右のように不埒について、過料銭1駄について1貫文ずつ、合わせて19貫619文
                本町1丁目作兵衛借屋横丁  伊実屋万蔵
一 4駄7歩5厘
  古法があり右のように不埒について、過料銭1駄について500文ずつ、合わせて2貫387文
                     伊実屋万蔵大屋  板屋作兵衛
一 1貫文  
  借屋万蔵は古法に背き不埒について、過料銭
                     池田町      河内屋仁右衛門
一 11駄9歩4厘       取次荷物
  古法があり右のように不埒について、過料銭1駄について1貫文ずつ、合わせて11貫911文
                     池田町      生坂屋与右衛門
一 1駄片馬          塩直買
  古法を破ったことについて、過料銭1駄について3貫文ずつ、合わせて4貫500文
                     大横丁      高遠屋善蔵
一 6駄9厘          取次荷物
  古法があり右のように不埒について、過料銭1駄について1貫文ずつ、合わせて6貫86文
                     大横丁源治郎借屋 庄蔵
一 1駄
  法があり右のように不埒について、過料銭3貫文
                     本町壱丁目 市場
一 2貫文          過料銭     
                     本町弐丁目 市場
一 2貫文          過料銭     
                     番匠町 市場
一 2貫文          過料銭     
                     知久町弐丁目 市場
一 2貫文          過料銭     
                     松尾町壱丁目 市場
一 2貫文          過料銭      
                     大横町 市場
一 2貫文          過料銭     
                     田町 市場
一 2貫文          過料銭
右七町 合わせて14貫文
 吟味もするべきところ、市場・在方あるいは横丁等へ直送の荷物を改めず不埒について、過料銭2貫ずつ
                     本町三丁目 市場
一 1貫文          過料銭     
                     松尾町三丁目 市場
一 1貫文          過料銭     
 右2町 合わせて2貫文
 送り状をよく調べず不埒について、過料銭1貫文ずつ
 
 前のように古法に照らし合わせ、それぞれ過料銭を申し付つけた。これから心得違が有って違反がある場合には、過料の分量も増すことになるので、このことを申し伝えてきた。
 
 右のように私たちは、城下の古法に背いたので、申し上げることはありません。これによりそれぞれ過料銭を仰せ付けられました。よく慎み不埒のことをしないよう、捺印をします。
    文化7午年11月9日  大横丁源次郎借屋      庄蔵
                同町            善蔵
                池田町           与右衛門
                同町            仁左衛門
                知久町2丁目        忠七
                本町2丁目作兵衛借屋    萬蔵
                万蔵大屋          作兵衛
                本町壱丁目         庄兵衛
                松尾町壱丁目組頭      新兵衛
                同じく           源兵衛
                松尾町2丁目組頭      善蔵
                同じく           善助
                大横丁組頭         藤八
                同じく           清右衛門
                田町組頭          吉右衛門
                同じく           源兵衛
                番匠町組頭         源兵衛
                同じく           五郎兵衛
                知久町2丁目組頭      傳兵衛
                同じく           庄蔵
                本町3丁目組頭       権兵衛
                同じく           半蔵
                本町2丁目組頭       好右衛門
                同じく           文次郎
                本町1丁目組頭       庄次郎
                同じく           久四郎
       町年寄    福住太郎太夫殿
       同じく    福住喜代蔵 殿
問屋     桜井平七  殿
       同じく    福沢弥平治 殿
       庄屋     弥吉 殿
       同じく    森 五兵衛 殿
       同じく    野原半三郎 殿
       同じく    享四郎 殿
 
 右の通り差出された過料は、両問屋が預り13町の入用割の時に請け取る筈になっている。
 本書は筆頭福住太郎太夫殿へ預けておく
 
【(朱書)廿 ○】
一文化7年閏12月16日に本覚寺において、他所へ行く魚荷物は、中継が誰でも1駄に付いて60文ずつ庭銭を取ることに定められた。
  但しそのうち24文は市運上、12文は付け出し歩銭、残り24文は取り次庭銭、このように馬宿荷問屋へ伝えた。
 
【(朱書)廿二 ○】
一峰高寺前の売物店のことは、古来許可も禁止もなかったが、角屋横丁になるので、今回相談し南側角屋の役として、殿様が江戸参勤の時、堀端帯砂6丁の分・7丁の分両所へ差出すようにしたいと申し出た。
  このことについて両問屋相談し、峯高寺前両側角屋へ、帯砂6町へ3荷・7町へ3荷差し出すように申し付けた。
但し借屋役で持ち出すので、3軒借屋あるので3荷ずつに定め、借屋の軒数次第であること。
 
【(朱書)廿三 ○】
一同席13町年行司の順番を定めた。
   但し何にしても13町へいろいろな不法のことがあり、見聞次第行司は町へ申し出し、世話をするはず、本町1丁目から始める。
 
【(朱書)廿四 ○】
一3月14日本覚寺へ役人が寄り合い、組頭本町1丁目庄次郎が出て、2月本町1丁目市場当番より届け出があり、萬屋孫三郎が継いで伝馬町上野屋嘉兵衛へ行く魚8ツ荷1箇、越前屋四郎三郎借屋樽屋金蔵の仕切がついていた。阿嶋田丸屋清三郎へ行く荷物1駄差し押え、そのほか町々の市場帳面を改めたところ、
  合わせて 8駄          金蔵
  合わせて 1駄2分5厘      孫三郎
 右過料1駄について700文ずつ、来る17日迄に問屋へ差し出すように申し渡した。
   孫三郎は荷物の着いた日に、2回とも不法があったとして、当番の市場へ差し出ておいた。指図によって買い分けをしたので、過料銭の改めをすることについて久四郎まで申し出て、このことは問屋へ届け差し許される。
 
【(朱書)○ 廿四末】
一4月1日本町1丁目樽屋金蔵方へ向け、新城鈴木禎助より天草(てんぐさ)16箇が来た。八幡の佐野屋惣助・三河屋平五郎は役であるので、金蔵の取りはからいについて届け出た。これによって当番の松尾町2丁目へ渡し、牛方の根羽村与蔵・同村幸蔵の二人が困らないように、敷駄賃を市場が立て替えておき、荷が来たら取り捌くように言っておいたところ、市場が貧しくて、町でこのお金が準備できないと言ってきた。牛方も一日逗留していると困るということを問屋へ申し立てたので、本町1丁目の組頭から内々に金を渡し、牛方は出発していった。
 
【(朱書)廿五 ○】紙問屋・青物問屋のこと
一文化4(1807)年11月4日の本覚寺において、町役人より申し聞かされた。今回城下で青物問屋の願い人があった。問屋ができて困る者はあるか、若し困るものがあったらそのわけをくわしく言うようにと申し渡された。町々の組頭で聞いた者たちが相談したところ、差しさわりを言う町もあった。またそうでもないという町もあった。そして決められないでいたところ、11月10日本覚寺において町役人が呼び出されて、今回の仰せ渡されたことの説明があった。
   今回林新作が御用紙を引請て用立てることについて、紙問屋を免許してほしいと願い出た。その趣旨を聞き届け紙問屋が免許されたので、領分中で出来た紙は申すまでもなく、他所紙に至るまで、問屋の改印のない紙は一切取り扱いしないように書付を渡された。そして町中へ読み聞かせ、承知の印をついて差し出すように仰せつけられた。この仰せについて、町方の商人・元結屋・水引屋は言うに及ばず、在方の紙漉・他所紙漉・他国商人ともに困ったことなので、領分紙漉から新作へこの困ったことを申し伝えた。また町方は書き付けでお願いをした。この問屋の口銭は金1両について1匁6分と定められた。
一11月12日町の組頭が本覚寺二集まった。会合
 本一  伊実屋茂助    本ニ  板屋文次郎   本三  藤屋権兵衛
     嶋田屋久四郎       升屋治郎八       中屋半蔵
 知一  殿岡屋喜七    知ニ  吉田屋庄蔵   知三  京屋庄兵衛
     榎屋庄兵衛        綿屋吉兵衛       近江屋弥五兵衛
 大横丁 石砂屋清右衛門  番匠  駿河屋幸七   池田  水口屋政八
     伊勢屋藤八        近江屋五郎兵衛     きふ屋清十郎
 田町  正木屋茂左衛門  松壱  もみ屋善助   松ニ  松屋藤兵衛
     高田屋源兵衛       指物屋善三郎      吉田屋平之丞
 松三  萩屋利兵衛    傳壱  花屋弥助    傳ニ  野田屋与三郎
 桜壱  京屋平助     桜ニ  穀屋善次郎   桜三  水引屋順吉
     中嶋屋八兵衛
 紙問屋一件・青物問屋一件ともに書付で困った理由を書き差し上げるということに決まった。久四郎・次郎の二人が書き、本町1丁目組頭茂助が預り、帰えりに問屋へ差し出した。
一14日大横町・松尾町・箕瀬ともに、元結屋の仲間が申し合わせ、問屋がたてられては小前の者など商売をやめる者も多くなり、生活も続かなくなるの意で、問屋は差し留めてくれるように願いたいと申し出た。このことを再び町役人中へうかがったところ、同16日町役人が居並ぶ本覚寺へ、惣町の組頭が招かれ、きのう願いを出した問屋免許のことについて、困っていることをくわしく申し上げた。その理由をたずねたところ、組頭の中で一人も答えるものがなかった。もし吟味があって召出された時、無答であったことを申し上げるようでは、上に対して済むことではない。改めて願い出るようにでもなれば恐れ多いことである。よく調べて申し出るようにと言われた。初めに書いた書付の趣意とこの願いは変わっておることは、久四郎・清右衛門は答えず、答をしなかったことは後悔していた。14日の会に元結屋におだてられ願いを出したのか、このことについて又々内談した。最初差出した書付の趣旨を定め、又々この書付の趣旨を願い出たいと申し出、はっきりしないので、このことを尋ねたいと、役人中へ申すためでかけた。
     覚
一紙問屋を林新作に仰せ付けられ恐れいります。この商売は城下町で取り扱うもので、元結・水引類など店々で取り扱っています。少しでもほとんどは他所商人へ商っていることで、荷物を馬につけて付け出すことです。毛賀村に問屋ができると他所商人は、城下へ入り込まず通りぬけてしまい、城下町の賑いがなくなってしまいます。その上城下町の潤いにならなくて、だんだん町が衰えていくことになると思います。先年城下町の商売向やその町に許可の品々や禁止の品等もあります。村々の店は禁止との書付をいただいております。城下町は渡世をしてきましたが、近年商売が乱れ、城下町が衰えてきました。こうした時にお願いを申し上げるため度々出かけてきました。城下町へ問屋を立て、毛賀村そのほか村々へ出張店等を出すことも差し留めてくださるようお願いします。又元結・水引の類の職業は古来城下町の主な職業です。今迄紙を売り渡すのも最寄紙屋で、なじみの紙屋であるので、代金についてもいろいろ対応してくれて、繰り廻してきました。少しのもとででも高金の商売をし、下職の者たちも渡世をしてきました。問屋が立つと現金商いとなり、これまでのやり方と違い繰り廻しができなくなります。もとでの少ない者たちは、渡世をやめるようになり、嘆かわしく思います。
一城下町に問屋ができ商売をしていても、仲買を何人と決めるようになると、大変差支え困るので、城下町商人は紙の必要な者は、自由に問屋へ行き買い取れるようにしてください。
一青土佐・宇田漉紙・奉書衆廻紙・金銀紙包紙・唐紙・吉野紙・きせ紙・美濃紙など他国より来る紙類、そのほか京都・大坂辺から他国商人が持ってくる紙類は、新規の運上口銭等がかかるので、領分境や他領へ持ちこし、城下町では商いをしないようになるかもしれず、困ったことです。そうでなくてもこれまで店々の仕入れ方は、他国商人の持下りの紙類は買い付けても、代金はだいたい半年又は1ケ年くらい支払いを伸ばしてきました。店ではお金の差し廻わしにもなり、都合よくやってきました。これらのことも問屋ができ現金あつかいとなれば、できなくなると思います。
一願書の趣旨を年寄福住太郎太夫がいちいち尋ね、久四郎がくわしく答えました。このほか口銭についても1匁6分ときめたことなど、ほかの国でもこのような高値の口銭はなく、どこの国においても金1両について6分以上になることはまれです。今までに1匁くらいだったこともありますが、そうはありません。そのほか符合しないところもあるのでよく調べて出すようにと言われました。それはもっともとは思いますが、元結屋が別に願い出ことを熟談し、惣町一同の願書として差し出すようにしたいと言われ、さらに相談し願書を差し上げました。
 一青物28品書き上げ写
 一草類     一木芽類    一蕨(わらび)   一独活(うど)
 一蕗(ふき)  一笋(たけのこ)一茄子(なす)   一梅類
 一瓜類     一芋類     一ささげ類     一葱類(ねぎ)
 一大根     一牛蒡(ごぼう)一花類       一夕顔
 一かぼちゃ   一桃類     一柿類       一にんじん
 一茸類(きのこ)一蕪菜類    一梨子       一栗
 一柑類     一楪      一生姜(しょうが) 一魚鳥類
 
 一町方が難渋を申し立てたのはつぎの通り
       覚
 一柿類
   右の内串柿は特別高い荷物で、遠国へ送る依頼等も多い。その場所により買方や代金等も色々あるので、問屋ができると代金等について差し支え、困難になると考える。渋柿は日柄が限られている品で、時節おくれになっては用立てできない。問屋を立て日限間に合わない時は、年内の商売をやめるようになることもでき、どのくらい困難になるかわからない。
 一茸類
   右の内椎茸・岩茸・皮茸の三種は、高い品であって、他所より多く入り込む品なので、問屋が立つと他所商人とのかけ合等差し支え、困難になると思う。
 一栗類
   右の内搗栗は、他所より持ち込んで遠国へ送り込む品で、買い方をいろいろ相談することがあるが、問屋が立つようになると差し支え、困難になると思う。
 一桃類
   この内くるみは、遠国へ送ることがほとんどの品で、走荷物より一日二日の遅速により、格別直段が違ってしまう。商い事に差し支え、困難になると思う。
 一柑類・生姜・楪や、そのほかいも類・牛蒡・にんじん・うと・梅・干葡萄・ねぎ・千切大根・尾張大根・鳥魚類は、尾州・三州・遠州より馬に付けて運ばれてくる品々である。前々より市場にて商いをしてきたので、問屋が立つと困難になる。
右の他にこの地で作って出す品は少しで、差当り困ったこともない。紙問屋・青物問屋についての困難を調べ書を差し出したとおり、ふたつの書状により、御役所へ御訴訟を申し上げた。町役人中申した通り、惣町退出してしまう。右の他はこれを略す。
くわしいことは紙問屋記録にある。
一このような時なので、箕瀬吉田屋和七・久保屋善兵衛事源蔵の両人は、御会所塩100俵安にして差し上げ、城下町へ付けて来た塩の問屋を仰せ付けられる候ように、願書を差し上げたと、確かなうわさを聞いた。他に薪問屋を願ったものもある。綿問屋の願等もある。紙問屋騒動があり、延期を仰せ出されるほどのことだから、残りの願いは取り上げがなく、皆残念なことになった。
右の塩肴の一件・紙問屋古物問屋一件の記録は、本町1丁目嶋田屋久四郎殿記録より抜き書をした。紙問屋のことは紙問屋記録の詳しいものが別にある。
   弘化2巳年2月これを写す
 
   恐れながら書付をもって願い上げる口上の事
一城下町住居の者たちは、昔から諸商売を専らにし渡世している。若し家業に差し障わることが出来て、困窮をお願いする時は、御情けをもって願の通り仰せつけてくださるとありがたく思います。ところが享保年中に、城下町の願いを聞き届けてくださり、書付で村方の相応の売り物10か条や、禁止の商売物15カ条について定めてくださった。上市田村・上川路村は、駅場にふさわしい売物を許可され、そのほか種々禁止のものについて仰せ渡され、ありがたく渡世し安心していたとこ、近来村方の者たちは、その通達に背いて、街道筋へ店をだんだん出し、その上呉服物はじめ種々の職業に至るまで、大変乱れてきたので、城下町へ自然と人の出足が薄くなり、商人たちは困難になってきたと左の通り申し上げます。
一城下13町は昔より市廻りをしてきた塩・茶・魚ならびに蜜柑(みかん)・生姜そのほか、すべて他国より馬に付けて来ています。薯蕷(やまのいも)・にんじん・葱類の八百屋物、昆布・荒和布・若和布・心太種類の海藻、あるいは寒天たこ・粉・海苔類の乾物等の運上銭については、町々臨時入用として下され、ありがたく数年来大切に取りはかってきました。右の内塩については13町仲買たちが立ち会い買い分けてきました。袋茶については前の御領主様(脇坂氏)の代に、新規に桜町を取り立ての時、賑いのため桜町にするように仰せ付けられました。以後同町市廻りにしてきました。そのほか鍋釜の事ならびに奥馬宿をすることの許可を、同町へ御書付でいただきました。魚については享保以後13町ならびに伝馬町商人たちが、問屋場において買い分けてきました。右の品々は御領分の街道筋で荷替等をすることも禁止であるということになっています。このごろ村方の者たちは心得違をし、尾州・三州・飛州そのほか魚ならびに柑類など出所元へ出かけて、買ってきて自由に市町のほかの所で、密かに卸し小売をしています。城下町に許可された古法に差しわり迷惑至極に思っています。
一遠州から来る魚並びに柑橘類は、近頃遠山を通って付け送られて来る荷物があります。時又村辺より八幡へ持ってきておろしていると専ら聞いています。迷惑をしています。
一椀・元結・水引等については、職人たちにとって城下町重立の小前の者たちに至るまで大切な商売になっています。精を出し年々荷高も多くなり、売り先も広がってきています。この国中は勿論、江戸表をはじめ関東筋ならびに東海道・中仙道・北国筋、そのほか上方の国々へも送り売り捌いています。専らその利潤により家業を続けていたところ、近年村々の者たちが、農業を捨てて同じ職を始め、諸方へ荷物を送り、旅先での売方等かけ引もあり、弁えないことです。格別直段を下げ町人たちの商売の妨になり、その上売代取集めの差し支えになり、迷惑至極です。
一村方でやたらに旅人を止めている者もあるので、近年他所者が数多く入り込み、呉服・小間物・太物類そのほかの品々を振り売りし、城下町商人の差し支えになり、たいへん迷惑しています。
一和薬類を山方より城下町へ持ち出し、馬荷物等村方で買い留め、他所へ送荷をすることがあり、迷惑をしています。
一嶋田村八幡前寺社領家並については、八幡宮参詣の賑のため商売物があることを申し上げてきましたが、享保13申年別段許可になっており、その時町方へも御触が渡され、それについては承知しています。右の場所の商物については、八幡宮参詣賑いのために許可されており、寺社領家並に限り店暖簾をかけ、ふだん小売商いをしているのみということで、存じています。ところが近年駄卸商問屋風の取り扱いを手広にし、下条・遠山辺より城下町へ出す品々を買い留め、駄卸は勿論のこと旅送等もしています。あるいは奥筋より出す楮荷物も、そのほかの問屋商と同様の扱いをしています。楮荷物は、前々城下町商売人数多候処、右場所より荷元へ掛け合い、問屋同様の取引をしており、買人も近くなので自由がよく、買って帰るようになり、このままでは町方の商売が衰微してしまいます。その上天竜川東から出た荷物で、他所へ行く付け送りの取次などまでもしています。このようなことは自然と近村へも影響し、不法の取り扱いもあると聞いています。城下町の差し障わりになり、迷惑至極です。
一桶屋・鍛冶屋・紺屋そのほか諸職人、享保以後始めた者たちは、新規について城下町引越商売したいと考えていますが、享保年中度々仰せ出された禁止に背き、城下町同様に商売物を取扱い、そのうえ諸職業を始め、他国へ送る荷物あるいは、他所へ行く継荷などもして、いろいろ差し障わりが多くなり、かえって在の店は自由にできるので、年内二度の節季や平日も、城下町への人の入りは少なくなり、城下町がゆくゆくは衰微し困窮するのではないかと見えます。たいへん心配なことです。昔在店の停止の品々を仰せ渡された時、商売をしたい者たちは、城下町へ引越し住居していたので、町方に明家等もなく、日増しに繁栄していったと伝え聞いています。今は村々に住居しながら諸商売自由にしているので、町方小商人たちは差し障わりになり、自然と稼ぎが難しくなり、旅稼に出ていくものも数多いので、明家が多くなり迷惑に思っていたところ、その上旅先までも懐商いをし、大変嘆かわしく思っています。禁止の15か条は言うに及ばず、城下市町が差し障わりになり、八幡前寺社領駄卸商を始め、村方諸職・旅商・旅人宿等のことも、堅く差し留め下さいますようお願いします。これについて迷惑の者たち、皆々城下町へ引越ししても、出店をしても自由に城下において渡世したいと思います。村方住居の者たちは、農業の暇がある時は、紙漉そのほか絹・木綿類の産物生産に精を出し、城下商人共へ売渡し、相互睦しく渡世に励めば、城下・村方とも相当繁昌の基になると思いますが、農業の暇のない時でもかわりなく売買を専一にするものが多いので、城下商売方・職方大変差障になり、町人たちだんだん衰微困窮になります。万一後年になり臨時の御用等勤めることが、困難になるようになっては、恐れ多く歎しいことだと思います。町人たちは申し合わせ相互に商売に精を出し、城下町が日々繁昌するように励ましたいと思います。この上必至と差し詰まりになり、どんなお願いをしてご苦労をおかけするかわからず、立直しも覚束なく思います。恐れながらこのことを格別の御慈悲を持って聞いていただき、前の願いの趣旨を御聞済み下さり、城下町古法が差し障りなく町人たちの商売が続くように、享保年中の通り御制禁仰せ付け下されば、ありがたく思います。
   文政5午年          18町組頭
                      連印
 
天保14癸卯年
閏9月 これを写す      顧己亭 吾慎