[解説]

浅間山
上田歴史研究会 阿部勇

 「我(わが)信州は名山高岳固(もと)より多く其(その)尤(もっと)もなるものを浅間山となす」と浅間山研究会会長の佐藤寅太郎が『浅間山』の「序」で述べています。浅間山は古代から現在まで噴火を続け、信州人にとってはなじみの深い山岳です。県歌『信濃の国』にも「浅間はことに活火山」と歌われています。この歌は明治三十年半ばに長野師範学校で歌われはじめ、県下の小学校に広がっていきます。小諸の学校でも『信濃の国』が歌われていた明治四十年に「浅間山研究会」が長野県小諸尋常高等小学校内に立ち上げられ『浅間山』刊行への道が生まれます。
 浅間山研究会は校長佐藤寅太郎が会長、副に田中直次が就き、職員を三部門に分けて活動を開始しています。模型製作部、動植鉱部、山誌編纂部の三部門に分かれた職員は、発会と同時に、粘土で仮の模型を作成、浅間山麓一帯の植物採集、鉱物収集、動物分布調査、山誌の編纂作業などの活動を開始します。
 では、研究会が発行した『浅間山』を見ましょう。
第一編「東信風景論」からはじまり、第二「編浅間山」、第三編「浅間山変異記」、第四編「浅間神社考」、第五編「浅間山の地質及び岩石」、第六編「浅間山附近の植物」、第七編「浅間山附近の動物」、第八編「浅間登山」、第九編「浅岳余情」、第十編「浅間性情論」、第十一編「拾遺雑編」と続きます。
 これらの編名から、山誌編纂部だけでなく動植鉱部の調査研究成果が生かされていることがわかります。