本店を上田に置いた第十九銀行が諏訪地域に進出したのは、1881・明治14年8月28日のことである。諏訪郡下諏訪村348番地に出張員を派遣し荷為替業務を始めた。その背景には、イタリア・フランス両式を折衷した平野村(現岡谷市)の武居代次郎によって考案された諏訪式器械による「中山社」設立がある。同社の設立は、「設備・器械・技術の諸面で諏訪地方の製糸業に大きく影響したことはもちろんであるが、近代的な経営方法でもまた影響をおよぼした」(武田安弘『長野県製糸業史研究序説』29頁、他に『平野村誌』参照)。具体的には、「採算ベースに基づく堅実な運営をはかり、さらに相集まって共同出荷を目的とする結社(岡谷の皇運社・開明社、下諏訪の白鶴社、上諏訪の鵞湖社など)」が行われるようになった。この傾向はとくに諏訪地方に顕著であった」(『八十二銀行史』176頁)ことによるものであった。なお、諏訪の製糸業の変遷については、史料2の「製糸業の沿革及び現状」と史料3の「製糸業の沿革」がさらに掘り下げている。
諏訪製糸家に最も多くの資金を供給した第十九銀行が、下諏訪村の季節諏訪出張所を製糸業の中心地平野村岡谷に移転したのは1891年5月1日のことである。諏訪・飯田地方の製糸金融拡大を積極的に推進した黒沢鷹次郎頭取は、 1897年3月1日株式会社第十九銀行となった4月1日、第十九銀行岡谷支店に昇格させ、「同行と取引せざるもの殆ど稀なり」(史料2「銀行」22頁)との情況を作り上げていった(製糸業の中心地平野村の製糸業については、『平野村誌』1932年に詳しい)。