明治11年人口は3万を突破し、北海道開拓使が廃止された明治15年には人口37,756人、戸数7,617戸となった。幕末まで続いた女子人口が男子人口を上回る傾向は明治10年代に終止符をうち、男子人口が増加する傾向が認められるようになった。この原因は明治に入って北海道の開発が急速に進められ、封建時代と違って労働力の移動が容易になったことから、本州各地から本道への男子労働力が急激に増えたことによるものである。
明治14年6月現在の函館の本籍者を職業別に見ると、官吏89人、教職23人、商業1,353人、工業534人、漁業407人、技術36人、雑業2,295人、合計4,737人であった。今日の就業人口の産業別分類と特に違っているのは、「雑業」に分類された業種の内容が今日の分類の「その他」と異なり、多岐にわたる業種を一括したものであるため現在の就業構造と比較することはできないが、商業が全体の約30%を占めていることから、都市的な就業人口構成をすでに明治初期に備えていたといえよう。
明治14年には外国人居留戸数も24戸を数え、その職業は商業が14戸で最も多く、次いで宗教関係者が8戸となっている。国籍ではイギリス8戸、中国(清国)7戸が多く、その他アメリカ・ロシア・フランス・ドイツ・デンマークとなっている。
小樽・室蘭の港湾が整備される明治20年代以前の本州との定期旅客・貨物の航路は、ほとんど函館港が利用されていたため、中継点としての函館の人口は、旅客の一時的滞留を含めるとかなりの数になったと思われる。当時の本州の商人出稼人は2月下旬に渡道し、9月に離道する者が多く、そのため函館への滞留も夏季が一番多かったといわれている。
明治14年の全道の総人口は約24万人であったが、1万人前後の人口を有していたのは福山・江差・小樽・札幌だけで、函館の約3万6,000人と比較するとかなりの差があった。全道人口の15%を函館が占めていたことからみて、函館の本道に占める地位が極めて高かったことがわかる。
明治16年戸数は8,000を超え、人口は4万人台になった。その後港湾の整備が函館山山麓から函館湾沿いに進められ、戸数は急速に増加した。明治19年戸数は1万を突破し、同20年には人口も5万人台になった。明治20年代は年間約4~5%の人口増加率を保持し、明治32年には8万人台に達した。同31年から32年にかけて、戸数は1,000戸の増加、人口は1年に1万2,000人の増加を示している。これは、出(で)寄留人が各年に比べて著しく少なかったこと、亀田村の一部が函館に編入されたこと等によるものである。明治32年9月には豊川町大火があり、翌年の戸数は前年に比べて約3,000戸減り、人口も7,000人の減少をみた。
明治33年から明治44年までは人口・戸数の上で停滞期が続く。明治10年代、20年代のかなりの人口・戸数の急増も明治33年以降、特に明治40年の東川町大火以降、戸数では2万台、人口では8万7,000~8万9,000人とほとんど増加しない年が5年ほど続く。
明治2(1869)年~大正10(1921)年 人口・戸数の推移