今から約1万2000年前に日本列島で土器が作られるようになった。縄文土器より古いこの土器は、細隆線文土器と呼ばれるもので、愛媛県の上黒岩岩陰遺跡と長崎県福井洞窟の地層から、細石刃や有舌尖頭器などの石器と共に発見され、これと似た形式の土器が長野県や新潟県などでも発見されるようになった。細石刃とは、骨や木棒の先端あるいは側縁に、1個ないし数個を並べて嵌(は)め込み、槍などの刺突具として使用したもので、後期旧石器時代の終りの時期を代表する石器である。このような石器と土器が現われたことは、日本の土器の起源が後期旧石器時代の終りの時期までさかのぼるということなので重要な意味を持っていた。土器出現の年代について、地質学的調査に次いで、同じ地層から出土した木炭のカーボンによる年代測定のために、上黒岩のものをアメリカのアイソトープ研究所に、また福井洞窟のものを学習院大学の木越研究所に送り、測定を依頼したところ、いずれも1万2000年前後という年代測定値が出された。土器の出現が中国やヨーロッパの大陸でなく、日本列島で旧石器時代後半の石器群に伴って出土したことは、日本の考古学者に限らず、世界の学者を驚かせた。北海道にも晩期旧石器の時代にあたる遺跡から細石刃や有舌尖頭器が出土するが、まだ土器を伴った例がない。有舌尖頭器は弓矢が登場する以前の石器で、形は石鏃に似ているが、槍の先端に付け、投槍などに使用したもので、縄文時代に一般化する矢の根の祖形ともいわれている。
土器の出現は、先史時代の生活革命をもたらした最初の科学である。粘土を焼くと、粘土に含まれている機械的鉱物と化合的に結合している構造水が450度から650度の熱処理が加えられることによって放散し、あとで水に浸しても構造水は元にかえらなくなり、粘土とは別の物質になる。この原理を応用して土の焼物ができ上がる。いろいろな用途による容器の形、その文様も好みによって飾り付けられる。石器と違って、当時の人々の美術的表現や技術が具体的に現われる新石器時代、すなわち土器の時代がやがて続く。
縄文文化は土器文化の時代といえる。日本では土器が出現してから数千年の長い間、土器に縄目文様を付ける特有の縄文文化が続くのである。縄目を見ると、施文原体の変化と施文技術の移り変わりに時代と地域性のあることがわかる。そして器形は単純なものから次第に変化し、時代が新しくなると、更に多様化へと変遷をたどった。すなわち縄の施文技術の変化は土器製作技術の変化と一致しており、この移り変わりは生活または社会の移り変わりを反映している。ポリネシアでは釣針の変遷で時代的移り変わりがわかるというが、日本では土器形式が時代の特色を現わしているため、土器が時代判定の尺度となっている。縄文文化の研究を確立した山内清男は、縄文土器の編年を早期、前期、中期、後期、晩期の5期区分によって表わし、時代関係を不動のものとした。これは基礎的な土器形式を細分して大きく5期に区分したもので、この土器形式の細分を基準として石器や住居構造や集落の変化などを見ると、生活文化の移り変わりが土器形式と一致する。問題となるのはこの土器形式の年代である。かつては土器形式の新旧を層位学的にとらえて推定年代を求め、関東地方では土器形式の細分によって1形式が約1世紀に相当するともいわれてきた。しかし、前述のように昭和25年以降14Cによる年代測定の先史学への応用によって、遺跡の調査でも14C測定が採用されているが、測定値には誤差があり、確定的なものとはいえない。これまで縄文文化の起源で最も古いのは神奈川県夏島遺跡の紀元前7500年であったが、上黒岩や福井洞窟などのように縄文文化より古い年代の土器が発見されたことから、この時代の文化を先縄文文化と呼ぶようになった。このような縄文文化以前の問題に対して山内清男は、日本の土器の出現をアジア大陸との関連で考え、新潟などで出土した縄文土器より古い細石器や植刃を、シベリアのイサコヴオ期(紀元前4000年~3000年)に対比させ、縄文文化はそれ以後に栄えたとし、これまでの縄文文化の時代区分に土器初現の時期として、縄文早期の前に縄文草創期を設けた。山内の考えは14Cの年代測定値に対する批判と、日本の土器文化が大陸における土器文化の発生とそれほど差がないという根拠に基づいていたようである。山内の『日本先史時代概説』-講談社 昭和39年(『日本原始美術』)-では初めて草創期と5期区分の年代に触れ、草創期を紀元前3000年前後、早期を石器の擦り截(き)り手法が始まるキトイ期(紀元前2500年から同1700年)に対比して紀元前2500年前後、前期を紀元前2000年前後、中期を紀元前1500年前後、後期を紀元前1000年前後、晩期を紀元前500年前後とし、14Cの年代測定値による紀元前7000年または紀元前1万年の年代について「文化要素の比較は混乱に陥り、欧亜におよぶ冷静なる年代組織から失笑を買うことは確かである」と私見を述べている。
山内説のように14Cの年代に批判もあるが、今日では14C年代測定の資料が年々増加している。縄文時代の5期区分による遺跡の14C年代測定の主なものを挙げると、早期の黄島遺跡(瀬戸内)が紀元前6443年、同じく早期の虎杖浜遺跡(北海道)が紀元前5750年、前期の加茂遺跡(千葉)が紀元前3150年、中期の蛯山貝塚(千葉)が紀元前2563年、後期の検見川(千葉)が紀元前1122年、晩期の西志賀遺跡(名古屋)が紀元前640年と、14C年代測定による限り縄文文化は6000年以上も続いたことになる。しかし、山内が設定した5期区分は、東日本から西日本の縄文文化に共通性があり、土器の形式論と早期から晩期への編年を不動のものにしている。