土器や石器から生産や生活の規模が想像される。漁労は、回遊する魚群を、網で大量に獲得することができた。舟で網を仕掛け、岸にたぐり寄せる時、家族も総出で取り掛かり、干魚などの処理をしたが、労働力を要する舟造りや網の原料となる樹皮の採集は家族集団の共同作業でもあった。魚群の回遊は時期や季節によって、魚の種類や漁獲量も違い、家族集団の食糧を確保するには岩礁(しょう)などの根魚を釣ったり、銛やヤスで突いて補ったが、夏や冬の漁の薄い季節には食糧を他に求めなければならなかった。陸の動物や海獣も生活には欠くことができない獲物である。動物は食糧だけでなく、衣服や道具の材料にもなる。狩猟は旧石器時代から行われていたが、近ごろの調査で縄文時代の早期から仕掛け穴があったと考えられるようになった。住居群の周辺や小高い丘陵に、葉巻き形をした2メートル近くの穴が横に階段状に配列されているのが発見され、探さは1メートル近くもある。穴は丘陵の斜面に4つ、5つ、6つと単位になって配列されている。エゾシカなどを仕掛け穴に追い込んで捕獲した。弓矢で動物を追い求めるより効果的である。エゾシカなど群をなして行動する獲物を仕掛け穴に追い込む作業は、男の共同作業がなければならない。共同作業による獲物は、地位や作業量によって分配された。当時の道具から見た仕事量は、石器の中でも多い剥片石器をもとにした皮剥ぎ用、肉切り用の石器で推測される。動物の解体、毛皮、肉、内臓、骨などの処理が何よりも多かった。これは老若男女の食生活と結び付いた仕事である。食糧を獲得する道具の製作や管理は男の仕事であり、衣服や食糧の保存などは女の仕事であったであろう。
縄文時代早期を大きく分けると、貝殻文尖底土器が流行したころと、絡縄体圧痕文の平底土器が普及したころとに生活や文化の違いが見受けられる。前の時期には漁網を発達させて漁労の生産を高めたが、後の時期には石錘の数が減少する。この現象は漁法の改良と植物織維による網の技術改良によって、多くの石錘を必要としなくなったためと考えられる。繊維を撚(よ)る、編む、結ぶといった一連の技術進歩が縄の文様に現われてくる。この仕事は女性の仕事であったろうが、生産の向上に伴う生活のゆとりから縄文技術が生まれたのであろう。
共通する土器文様や石器技術の伝播(ぱ)が集団の移動によるものかどうかは明らかでないが、1遺跡から出土する土器、石器の量から、少なくとも数家族単位の集団が存在していたと考えられる。家族集団を統率する長老によって居住地が定められ、住居が建てられたが、その戸数は5、6戸が単位で、家の大きさも居住者の地位や作業量などによって一定していなかった。