弥生文化と東日本

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 明治17年に東京の本郷弥生町で発見された土器が、大森貝塚の土器と異なり、土器に籾痕(もみあと)があって、焼米を伴っていたことが報告された。その後、縄文の土器をアイヌ人の土器、弥生町の土器を大和民族の土器とする考え方もあった。この弥生式土器の編年が進められ、九州、畿内、関東では土器形式の変遷や大陸系の磨製石器、青銅器、農耕具などが出現する時期も明らかになり、集落遺跡では奈良県唐古遺跡、静岡県登呂遺跡が調査され、弥生時代の農業生活が認識されるようになった。青銅器も九州を中心とする銅剣や銅矛(ほこ)の分布と、畿内を中心とする銅鐸(たく)の分布で弥生文化の起源が論ぜられたこともあるが、福岡県志賀島から出土した「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」の金印や、中国の″史書″などにある「奴(な)国」、「伊都(いと)国」などが九州で出土する青銅製利器の分布と関係があったりすることから、弥生時代には小さな「くに」があったと考えられている。
 弥生文化は、縄文時代晩期に中国や朝鮮の金属器文化が支石墓などと共に九州に渡来して、初期稲作農耕文化を定着させて誕生するが、これが更に畿内に進んで発展する。弥生時代前期には稲作を中心に、低湿地を開墾して氏族共同体的な結合を残しながらも、内部的には階級の分化をはらんだ共同体的な体制であった。西日本の弥生文化は更に中部地方から東海地方に、そして南関東から北関東へと次第に東日本に波及して行った。東日本の弥生文化の成立について論じた田中国男は「弥生式縄文式接触文化の研究」を発表した。東日本の古い弥生式土器には縄文が施文されている。これについては「接触式」と呼ばれたこともある。弥生式土器には西日本の初期の形式であっても縄文がない。しかし、関東地方では初期の形式から縄文があり、後期になってから弥生特有の櫛目文の土器が現われてくる。また、東北地方南部以北では櫛目文の弥生式土器は見られず、そのほとんどに縄文が施されている。この縄文のある弥生式土器と石器や金属器の関係は、宮城県で大陸系の磨製石器や農耕に関係する石器を伴うのを限度とし、宮城県以北になると、弥生文化の特徴ある石庖丁(ほうちょう)や磨製石器の出土はなくなる。金属器は関東地方までは発見されるが、東北地方からは発見されていない。宮城県の桝形囲式には合口壷棺、土壙墓と農耕具とから稲作農耕が行われた痕跡が確認され、その後若干の資料から製塩も行われるようになったことが認められた。宮城県など東北の弥生式土器の古い形は福浦島下層式と呼ばれ、縄文終末期である大洞A、A′式の崩れた系統を引いている。その時期は弥生時代中期の初めで、編年的には北関東と同じように紀元前100年ぐらいから弥生時代となる。宮城県以北の弥生文化については東北大学の伊東信雄が調査した。東北地方北部の縄文時代以後は、縄文時代の伝統を引き継いだ続縄文文化が続き、その例として青森県南津軽郡田舎館遺跡出土の土器が挙げられていたが、田舎館村垂柳で田舎館式土器に伴って多量の炭化米と籾痕のある土器が発見されてからは、これが弥生文化の北限と考えられるようになった。土器形式からみると福浦島層式より3形式後で、弥生時代中期末に比定される。
 このように弥生文化の北進は、北関東から東北地方南部にかけては紀元前100年ぐらいの時に分布圏が拡大し、更に200年近くの後に東北北部の青森県にまで広がって行く。そのころ、西日本や東海道の一部では青銅製利器や銅鐸が盛んに鋳造され、集落形態も初期稲作農耕による共同体組織の社会が形成され、古代国家成立の萌芽期に入って行った。

弥生・古墳時代と続縄文時代編年表