そもそも蝦夷地が渡島の名で日本の国史の上にあらわれてくるのは、7世紀の中葉で、すなわち、『日本書記』の斉明天皇5(659)年、阿倍の臣の遠征が記録され、その時「問菟(トピウ)の蝦夷胆鹿島(イカシマ)・菟穂名(ウホナ)の二人進みて曰く、後方羊蹄(シリベシ)を以て政所(まつりどころ)と為す可し、胆鹿島等が語に隨いて、遂に郡領を置き帰る」とあり、北海道に政庁をおいたと伝え、松浦武四郎は後方羊蹄をいまの「しりべし」の地名に比定しているが、いまだ確証があるわけではない。その後も律令国家による征討がくりかえされ、持統天皇10(696)年3月の条に、越渡島の蝦夷伊奈理武志(いなりむし)と粛慎(みしはせ)の志良守叡草(しらしゆえそう)とに錦の袍袴・緋紺の絁(あしぎぬ)、斧などを賜わっていることが記され、奥羽と同様北方の住民の綏撫(すいぶ)が盛んにはかられ、その効果があらわれたのをみて、和銅5(712)年9月には、従来蝦夷地は越国守の管轄下にあったが、この時越国から出羽国に分け、蝦夷地をその国主の管轄下に置くようになった。また養老2(718)年8月には、出羽および渡島の蝦夷86人が上京し、馬千疋(10匹の誤りか)を通貢した記録が見られるが、古代渡島の蝦夷に馬を飼育した形跡がないから、おそらく出羽産のものであろうといわれている。次いで『続日本紀』の、養老4年正月の条によると「渡島津軽の津司従七位上、諸君鞍男等六人靺鞨(まかつ)国に遣わし、その風俗を観せしめた」とあり、この渡島津軽津の所在地が両者いずれの地をさしているかつまびらかにしないが、しかし、すでに両地を結ぶいずれかの港に、役所が置かれるまでになっていたことを物語っている。