和人渡来と蝦夷の歌枕

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 その後、和人の渡来もいよいよ多く、ことに延暦年間(782~805)以降、天喜、康平、文治における奥羽兵乱の際、戦いに破れてのがれ渡るものや、北陸道の辺りから、産物交易に通い、後永住した者もあったと伝え(『蝦夷島奇観』)、しだいに和人との接触がはげしくなると、辺境の蝦夷の風聞が京の文人の間にも注目をひき、平安の後期に著わされた、『久安六年(1150)御百首』にも、
 
    えぞが住む つかろの野べの 萩盛(はぎさかり) こや錦木の 立てるなる覧(らん)(尾張守藤原親隆朝臣)
 と詠まれ、また、久寿2(1155)年66歳で没したといわれる、藤原顕輔の歌にも、
 
    あさましや 千島のえぞが 作るなる とくきのやこそ 隙はもるなれ(『夫木和歌抄』)
 とあって、とくきのやとは毒気の矢で、アイヌの使うブシ矢であるといわれ、建久元(1190)年73歳で寂滅した、西行法師にも、
 
    いたけるも あま見る時に なりにけり えぞが千島を けぶりこめたり
 の歌が見られるように、この異民族に関する知識が、ようやく都の人々にも知られはじめている。