アイヌの抗争

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 蠣崎氏が檜山安東氏の代官になることによって、蝦夷島における和人の間に最高の地位を得、各所に占拠していた前述の館主の子孫や豪族の大部分を臣下につけることに成功したが、しかし、いまだ隠然たる力をもつアイヌ民族の支配にまでは及んでいなかった。ことに、東部の敗北によって、急激に和人が西部地帯に集中したため、必然これまでこの地帯でアイヌが保有していた権益を侵し、感情を害する結果も多かったと思われ、従って幾度かの抗争が繰り返された。すなわち、その後の大きな動乱を挙げれば、永正12年の庶野訇峙(ショヤコウシ)兄弟の乱をはじめ、享禄2(1529)年の多那嶮(従来タナサカシと読んでいるが嶮は犬でタナイヌと読むべきであろう『新北海道史』)の乱、または天文5(1536)年西部の酋長多離困那(タリコナ)の来襲等、いずれも蠣崎氏の2大根拠地、大館と上ノ国を対象として襲っているが、そのたびごとに蠣崎氏は権謀術数をめぐらして和睦し、ついには酒宴を用いて泥酔させ、あるいは利をもって誘い、その隙に乗じて首領一味を虐殺するという、常套手段を用いている。