こうして同年12月、特に書院番頭
松平信濃守忠明を抜てきして
蝦夷地警衛の事に当らせ、翌11年正月、勘定奉行
石川左近将監忠房、目付羽太庄左衛門正義、および大河内政寿、三橋成方にも同様の命が出、
蝦夷地のことはこの5人が当ることになり、渡辺胤は
江戸にあってその事にあずかり、老中戸田采女正氏教、若年寄立花出雲守種周が総括することになり、同時に左のような命が発せられた。
松平信濃守 |
石川左近将監 |
羽太庄左衛門 |
大河内善兵衛 |
三橋藤右衛門 |
今度異国境御取締仰付けられ候に付、東奥蝦夷地の内、島々まで当分御用地に相成り、其方共御用仰付けられ候。是まで松前若狭守右の土地より年々収納の分は、公儀より若狭守え相渡り候様成し下され候に付、右の場所場所は万端其方共差図に任せ候様、若狭守え申渡し候間其意を得られ、尚土地の様子も追々申談の上見分これ有り、蝦夷人教育の儀を始め、風俗を替え候儀、並に交易の趣法までも存じ寄りに任せ、一体開国の御趣意を含み、服従いたし候儀第一に心得らるべく候。右御用の儀は深き御趣意にて仰出され候儀にこれ有り、御国境の事にも候えば其心得を以て銘々粉骨を尽し、今度の御趣意に違はざる様進退差引精勤致さるべく候。尤も止むを得ざる儀は伺に及ばず取計らい申さるべく候。御入用向等の儀は少なからざる儀にもこれ有るべく候間、追々相伺わるべく候。 |
寛政十一末年正月十六日 |