ところが一方、同月6日箱館の商人和賀屋宇兵衛の手船が、矢尻浜(椴法華村の内)の沖合3、4里のところで怪しい船を見かけたとの報が15日に届けられた。こうして各地に種々の風説が乱れ飛び、人心恟々(きょうきょう)たるなかに、18日申の刻(午後4時ころ)、福山の南方に帆数11を持ち、およそ1万石積ばかりの外国船1隻が見えたので、松前藩は福山城を警戒し、同所在勤調役寺田忠右衛門は、津軽藩兵に命じて弁天岬の海辺および白神岬などを警護させた。この船は19日午の刻(正午ころ)箱館の南々西に現われ、次第に近付き、望遠鏡で陸をうかがう様子であったので、羽太正養は、南部・津軽の兵数百人、奉行支配向、村役人、百姓ら数百人を18か所に分かって警備につかせ、自らは100余人を率いて各陣所を巡視した。市民は早くも老人、小児らを箱館山の林間に避難させようとして市内は混乱を極めた。この船は夕刻汐首岬の沖にかかり、まもなく東に向かって帆影を没したが、この日南部領大澗沖でも外国船1隻を見たとの知らせがあったので、終夜篝火(かがりび)をたき、不眠不休の警戒を続けること3昼夜に及んだという。しかも恐怖はなお去らず、市中では具足、武具を求める者が多く、侍は具足、鉄砲、火縄を枕元において寝、風呂屋の戸棚は具足で埋められたといわれている。