鼎泉

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 また、箱館には井戸水が乏しく、現にこのため消防の便を失ったことを痛感した戸川、羽太両奉行はこれを憂慮し、翌年雪解けを待って、井戸の掘削を計画していたところ、たまたま、さきに蝦夷地御用掛を務めた勘定奉行石川忠房は箱館大火を聞いて驚き、難民を救おうと欲したが遠路でそのすぺなく、然るべく取計らわれたし、とて黄金10両を贈ったので、これを費用の内に加え、4年春大町の西隅の路傍に1つの井戸を掘った。この井戸は地中の巨巌を掘ったところ、清泉が湧き出たので筧(かけい)をもって近隣数十軒に引き、平時は朝夕の助けとし、事ある時は火災の消火用水に供したと伝えている。この井戸は正養の書記高阪龍介が3人の奉行の協力で成ったことから、名づけて「鼎泉(かなえのいずみ)」と称し一文を撰して石製の井桁(げた)に刻んだ。
 
箱館の湊はいはほ多き磯辺なれば、井をほることたやすからず。民草の茂り行くにしたがひ水自ら乏し。されば、去年の冬祝融の災有し時も之を防ぐによすがなふして三百宇あまりを失ふ。筑前守戸川の君と、我たのみまいらする君とは、時の尹にてましませばいふもさら也。昔蝦夷が嶋の事にあづかり給ひし左近将監石川の君も亦此事を深く歎かせ給ひ、三たりの君たち心をひとつにして、民の為にとて此井戸を作らしめ、其水をあまたの家々にひかせて、朝な夕なの助とし、あるは非常の備とし給ふ。かくてやつがりに其事を誌し、はた井の名をもかうがへよと仰事あるにまかせ、竊におもふに、井は養ふて窮らずとも、また民を労り勧めたすくともみえし古き文の深き心を汲みとらせ給ふ、三たりの君たちに擬へ奉らば鼎の泉ともいはましやと、かしこみかしこみ申侍る

      文化四年三月                      高阪龍介源元禎誌書
                                     羽太安芸守書記