高田屋の家訓

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 箱館経済を不振に陥れた原因の一つに高田屋の没落がある。
 前述のごとく高田屋嘉兵衛は、幕府の信頼と手厚い庇護により、急速に成長して巨富を得るとともに、商業と海運と漁業を兼ね、その勢いはまことに隆々たるものがあった。その後、嘉兵衛は弟金兵衛を養子とし、家業一切を譲って淡路に隠居したが、金兵衛もまた他の兄弟らと力を合わせ、左の家訓ともいうべき定をもってその業に励んだ。
 
     定
一、上方本店箱館店両方共、元勘定は写書其年に双方え取替わせ、相調置き申すべき事。
一、ヱトロフ、子モロ、ホロイツミ三ケ場所は上方本店持、諸仕入物も同様、尤も勘定其年々の分は箱館店にて仕上いたし、本店え帳面登らせ申すべき事。
一、手船之儀は是迄之通、上方本店持の分は大坂店諸受払の積り、箱館店持の分は箱館店請受払の積り、尤も船々年々徳用勘定は双方共、写書取かわせ相調置申すべき事。
 一、三ケ所より出産石数百石江金壱両、船々積石数百石江金壱両、都合百石に付金弐両宛年々積金いたし、其高の内百両は淡州先祖、残りは箱館店え積置き、追而三人相談の上取計い来り申すべき事。
一、兵庫本家江年々金弐百両宛積金、内百両は箱館店より登らせ申すべく、残りは大坂店より出金、尤も正金にて其年中に相渡し置き申すべき事。
一、淡州先祖は是迄之通、元(本)家にて祭事いたさせ候様、尤も諸入用之儀は、高の内半分は箱館店より出金、残りは大坂店より相渡積り、弥蔵年々自分稼出金は、兵庫本店え積立にいたし置き、年々支配に登り申す者立合改め置き申すべき事。
一、大阪、兵庫共五ケ年之内は、家作並地面等相求め申さざる積り、尤も拠無き儀は、其年支配に登り申すもの了簡を以ていたし申すべき事。
一、造船之儀は、五ヶ年の内見合せ申すべく、尤も造り替え之儀は、其年々三人相談の上いたし申すべき事。
一、取引方並金銀貸借等之儀は、三人相談の積り、尤も其時に居合せ申さざる節ほ、其所の支配人の了簡に取計い来 り申すべく、猶又印形等も壱人にて相済み候時は、壱人にていたし置き申すべき事。
一、上方は申すに及ばず、箱館共残らず高田屋の身代に相違これ無く、後日に名前人の金兵衛のものと申さざる積り、依て後日名前人替り候節は、箱館上方共取引方印形共、証文預印形は跡名前人に切替申すべき事。
一、箱館店名前人の儀、金兵衛え年々七百石積船壱艘の徳用遣し申すべき事。
一、箱館店支配人の儀は、何れのものにても三人相談の上差置き候節は、先の支配人彼是申す間敷事。
右之趣に三人評議之上取定置き候上は、後日如何様之儀これ有り候共、其人々気侭に取斗い申す間敷、依て承知連印仕り候処如
    文政元年 寅九月         高田屋 弥吉  印
                     高田屋 嘉十郎 印
                     高田屋 金兵衛 印
 前書之趣箱館において承知仕り候に付、証奥印仕り候 以上
  則日                 高田屋 彦助  印

 
 このようにして高田屋の家業は堅実に進められ、箱館の繁栄に及ぼした影響も少なくなかった。