密約の発覚

505 / 706ページ
 この小旗を示して通過するという旗合せのことから密貿易の嫌疑となり、引続き福山で糾明を受け、更に同年11月金兵衛および船頭重蔵ならびに水夫ら11名が江戸に召喚され、さきに箱館奉行であった当時の勘定奉行村垣定行の取調べを受けるに至った。そもそもこの旗合せというのは、これより19年前の文化9(1812)年、高田屋嘉兵衛がロシア人に捕えられカムチャツカに至った際、日本に幽閉されていたゴロウニンの釈放を約し、その斡旋に努力したことによって、ロシア人は大いにこれを感謝し、これに報いるため以後高田屋の船舶には、いかなることがあっても劫掠(ごうりゃく)などせず、もしも海上で遭遇した場合には、高田屋の店印である印の小旗を掲げ示す時は、ロシア船もまた赤布を掲げてこれに応答しようという密約が結ばれていた。そこで嘉兵衛は、このことをひそかに所有船ならびに雇船の各船頭に申し含め、幅2尺長さ3尺ばかりの小旗を交付したが、以来これを使用することもなく過すうち、嘉兵衛は文政10(1827)年この世を去り、それから4年後にはじめて使用されたものであった。