金兵衛の追放処分

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 こうして天保3年8月、この事件は評定所一座の審問の結果、海上で外国船に会い、酒などを与えたことはあるが、密貿易の事実は認められなかった。しかし、ロシアとの密約のことが明らかとなり、そのことをこれまで隠していたこと、また嘉兵衛とともに捕えられて帰った徳兵衛なるものは、領主領内の外へみだりに出入することを禁じられているにもかかわらず、これを自由に召使ったことなどの罪科により、翌天保4年2月23日、金兵衛はその所有船12隻ならびに小旗を没収され、江戸10里四方追放、生国淡路郡志本村領主松平阿波守領分のほかに他出すべからざること、金兵衛養子嘉市は船稼ぎ差留め、所払いならびに兵庫大坂の支店地に立入るべからざることを申し渡され、更に金兵衛所有家屋、倉庫、器財などは、同人親類の意志にまかせて処分すべき旨が達しられた。これがため、さしも全盛を極めた高田屋もついに没落するに至り、箱館市中なども一時は全く火の消えたようになってしまったと伝えられる。