南部・津軽・秋田等にては、松前へさえ行けば餓死を免るるとて、船舶の下り来るものある毎に、便船を乞うもの多く、これを謝絶すれば、帆影を追いて海に投じ、溺死するものあるに至る。因て舟子も止むを得ず之を乗船せしむるも、公然箱館港に上陸せしむるを得ざるにより、密に山背泊或は寒川等に上陸せしめ、而して船手は毫も之を知らざるの状をなして入港す。故に市民は飢民の何れより来るを知らず、各喫驚するのみなりしが、追々食を乞うもの増殖し、遂に門内に入りて倒るるに至りければ、市民の志あるものは、一日幾升と限り、粥を製し之を与えたり。 |
尻岸内村 此際に当って、南部地方より続々渡航せし者あり、漁業を営みて、今尚残留するもの数多あり。 |
茂辺地村 天保四、五年頃より、南部・津軽の人民、隣村当別へ渡航し、其何地に行くや知らずと雖も、当村を通行するもの幾百人なるを知らず、是皆該地方の飢民にして、松前の天富を伝聞き、生命を保んが為めに来るものなりと云う。(以下略) |
このようにして渡来した者は、一時これを保護しておいて、1人につき米1升、銭200文を与えて帰らせるという対策などもとられたが、ひそかに上陸し、海浜の山野に住みついた者には、そのような対策もなく、先任者にあわれみを請い、漁夫その他に雇われ、または知人や親戚に救助され、あるいは一家で草家を建て、海や山に食物をあさって露命をつないで、住みつくようになった者もあったという。