天保飢饉と箱館

520 / 706ページ
 箱館地方の人口は、天保年間の奥羽地方の飢饉を契機として急増を示した。すなわち、天保3年以降打ち続く凶作に遭遇し、そのため窮民は活路を求めてひそかに蝦夷地に渡来するものが少なくなかったが、天保7年には更に多数の者が、同年秋から翌年春にかけて、あるいは商船に乗り、あるいは自ら小船を操って渡航した。これを『松前天保凶荒録』によって挙げれば、次のようである。
 
南部・津軽・秋田等にては、松前へさえ行けば餓死を免るるとて、船舶の下り来るものある毎に、便船を乞うもの多く、これを謝絶すれば、帆影を追いて海に投じ、溺死するものあるに至る。因て舟子も止むを得ず之を乗船せしむるも、公然箱館港に上陸せしむるを得ざるにより、密に山背泊或は寒川等に上陸せしめ、而して船手は毫も之を知らざるの状をなして入港す。故に市民は飢民の何れより来るを知らず、各喫驚するのみなりしが、追々食を乞うもの増殖し、遂に門内に入りて倒るるに至りければ、市民の志あるものは、一日幾升と限り、粥を製し之を与えたり。
 尻岸内村 此際に当って、南部地方より続々渡航せし者あり、漁業を営みて、今尚残留するもの数多あり。
 茂辺地村 天保四、五年頃より、南部・津軽の人民、隣村当別へ渡航し、其何地に行くや知らずと雖も、当村を通行するもの幾百人なるを知らず、是皆該地方の飢民にして、松前の天富を伝聞き、生命を保んが為めに来るものなりと云う。(以下略)

 
 このようにして渡来した者は、一時これを保護しておいて、1人につき米1升、銭200文を与えて帰らせるという対策などもとられたが、ひそかに上陸し、海浜の山野に住みついた者には、そのような対策もなく、先任者にあわれみを請い、漁夫その他に雇われ、または知人や親戚に救助され、あるいは一家で草家を建て、海や山に食物をあさって露命をつないで、住みつくようになった者もあったという。