松前藩復領後の箱館地方が、前述のような政治・経済の経過をたどるなかで、文化10(1813)年以来およそ10年ばかりその姿を見せなかった外国船が、文政年間に入ると早くもその船影を現わし、ときには食料や薪水を求めて上陸する者もあり、真相を知らぬ官民がこれを撃退しようとしたので、しばしば小さな衝突が繰返された。
すなわち、復領後2年目の文政6(1823)年8月5日、1隻の外国船が幌泉に現われ上陸して水を汲んでいるという注進に、城下福山から物頭柴田浦太が一隊を率いてこれに赴くという事件があり、次いで同8年6月5日には勇払沖合にも姿を見せた。更に天保2(1831)年2月20日、1隻の外国船が厚岸場所ウラヤコタンに停泊、ときどき発砲するので、厚岸勤番谷梯小右衛門が部下や住民など60余人率いて向ったところ、24日外人は1隻の小舟で近付き、わが陣地に向って銃を放ったので彼我交戦となり、敵は更に小舟4艘をもって援護し、1般を上陸させて高地から銃火をあびせるので、ついに衆寡敵せず敗れて厚岸に退いた。敵は番屋を焼き、小右衛門の従者1人とアイヌ1人を捕えたが、3月3日に敵は擒(とりこ)の2人に書簡および食物を持たせて陸に送り返し、翌日帆をあげて東方に去ったという(『国泰寺日鑑記』)。