寺子屋の教育内容

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 往時の寺子屋の経営および教課内容を挙げると、次の通りである。
 
授業料・授業時間 文化以前は月謝のきまりはなく、五節句の礼と1年に炭2俵位のもの、床は板敷で冬は銘々座布団を用いた。岡村某は津軽弘前の人で、大黒町に寺子屋を開き、月並銭1人前162文、七夕講の掛金25文位、畳替割合1か年2、300文位、炭2俵位、五節句樽代50文から1朱位で、入学束脩(そくしゅう)、神酒肴あり、束脩金2朱から1分を普通とした。まれには2分、3分、1両、またまれには2、3両位のものもあった。入学の際、相弟子へ赤飯、まんじゅうその他を振舞った。
授業時間は明六つ時(午前6時)出席、直ちに五つ時(午前8時)まで読書、のち正午まで習字、昼食後また習字をすること一時半(3時間)、あと七つ時(午後4時)まで読書、依頼者があれば「そろばん」も教授した。休憩は昼食後半時(1時間)だけである。
教授法 教授の方法はその人によって様々であった。
教授書類 習字手本としては「いろは」「仮名交り口上」「町名村名」「名頭」「国尽」「商売往来」「諸職往来」「庭訓往来」「用文章」。読本としては「商売往来」「実語経」「古状揃」「庭訓往来」「孝経」「四書」まれに「五経」などがあっていずれも素読。
修身 一定しないが、月2度の半休日に演説のようなことをすることがあり、朝出席の時には「何誰只今参上」と言わせ、晩には終日授業の礼を言わせた。客の来る時は、女に女2人、男には男2、3人を惣代として礼を言わせ、弟子同志は、誰殿と言わせていたが、安政後は誰様というようになった。師匠は弟子を呼び捨てにしていた。
休日 7日(半日)24日(半日)25日(1日)。1人でも入学者があれば半日の休みとなった。正月は7日まで休み、12月は21日から休みとしたが、これは書初めを年内に済ませ、寺子屋に飾付けるためであった。書初めは5字から50字位までで、唐詩古文の類、また年5度、仙花などへ1枚1字の額面になぞらえた大字を2枚ずつ書かせ、寺子屋と自宅に張らせた。
天神講 これは年4度、米・小豆などを持参し、24日は天満宮の祭をして、夜五つ時(午後8時)過ぎまで、太鼓を鳴らして遊ばせた。この4度は月並銭とも200文。
七夕祭 第4章第5節にも述べたが、これは寺子屋師匠岡村某の生国の風を移して、1人持から8人、10人、20人以上持の額灯籠をつくり、大きいものは車引きにして様々の細工をし、鳴物付雑子をして町会所へ届け、7月5日くじ引きで順番をきめ、6日七つ時(午後4時)ころから灯をともし、御奉行の一覧に供え、それから夜中過ぎまで随意に市中を回り、7日は日中過ぎまで又市中を回り、大森山背泊などの海へ短冊などを流し、帰って神酒、赤飯など振舞われた。これも300文から1朱位の割合で、子供の着物も縮緬以上のもので、入費もかかった。ただし、師匠の方は喧嘩口論などの心配で利益もなく、ただ市中の商人には大い喜ばれた。

 なお、若山太蔵の開いた寺子屋は若山堂といい、はじめは商業のかたわら教えていた。2代目藤兵衛は極めて立派な師匠として敬われ、死後教え子たちによって墓が建てられたという。