日米和親条約締結

549 ~ 550 / 706ページ

ペリー提督

 嘉永6(1853)年6月3日、アメリカ合衆国水師提督ペリーが、軍艦4隻を率いて浦賀に来航、和親通商を求める国書を置いて抜錨したが、安政元(1854)年1月、再び軍艦8隻をもって浦賀に来り、更に進んで神奈川沖に入し、前年提出の国書に対する回答を要望した。幕府は儒者林大学頭および町奉行井戸対馬守らに命じて、神奈川においてこれを応接させた。アメリカの要望するところは、(1)日本沿岸において遭難した合衆国船舶の乗組員の生命財産を保護すること。(2)合衆国の船舶に薪水食料の補給ならびに修理のため数港を開くこと。(3)合衆国船舶との交易のため数港を開くこと。の3箇条であった。そこで幕府は第3の交易を拒否するほかは、その要求を入れることを決し、港は長崎1港に限ろうとしたが、ペリーは、長崎がアメリカの航路に当たらないので、その代わり神奈川もしくは浦賀をもってし、更に琉球・松前の3港の開港を求めた。しかし幕府は琉球・松前は遠隔の地で監督が困難なばかりか、その地には、いずれも領主があり、その意向をたださねばならず、また浦賀・神奈川は内国船舶輻輳(ふくそう)の地という理由で、いずれも拒んだ。ペリーは、琉球は断念しても、松前には自ら赴いて領主に談判すると主張して譲らなかったので、相互譲歩の結果、ついに松前の代わりに箱館を、浦賀の代わりに下田を開港することに決した。彼らが本道1港の開港を重要視した理由としては、当時ロシアがクリミア戦争などによって北太平洋勢力が一時後退しつつあった折柄、その間隙を縫うように英仏が進出して来たこともあり、加えて今まで北大西洋にあった米国捕鯨の中心が北太平洋に移ったことや、更にアメリカの開拓勢力がすでに太平洋岸に達していたことなどが挙げられる。従って、米国捕鯨船が北海道近海において活動するためにも、薪水補給や人命救助等の基地を必要としていたのである。
 こうして同年3月3日12箇条からなる和親条約が調印され、箱館港は翌安政2(1855)年3月から開港されることになった。すなわち、
 
第二箇条
一 伊豆下田、松前地箱館の両港は日本政府に於て、亜墨利加船、薪水食料石炭欠乏の品を、日本にて調候丈は給候為め、渡来の儀差免し候、尤下田港は条約書面調印の上、即時にも相開き箱館は来年二月より相始候事。

 
 等の外、日本近海に漂流する船舶はこれを扶助し、漂民を開港場に送り帰国させることなどの条約が締結された。
 諸外国がこれを黙過するはずはなく、同年8月23日には、クリミア戦争のため一足おくれたイギリスとの間に和親条約が結ばれて、長崎箱館を開港、同じく9月2日オランダにも下田・箱館の開港を許可した。