松前藩では、蝦夷地を警備していた各藩に、その警備を分割領知させるという話が起こると、従来必ず松前を経由していた蝦夷地の産物が、直接各藩に行き、経済的に苦しくなるという心配から、蝦夷地を松前藩から上知しておいて、これを各藩に分割する不当を訴えるため、東西元太郎という架空の人物をつくり、在郷の百姓に一揆を起こさせ、また藩民を江戸にのぼらせて幕府要人に直訴をさせるという猛運動を起こした。しかし一揆は鎮圧され、江戸にのぼった者は帰国させられ、藩は幕府から戒められるとともに、重役はいずれも譴(けん)責を受けた。その後、諸藩の分割支配が実現されたので、文久元(1861)年3月、崇広は書を幕府に奉り、一昨年秋蝦夷地の内を松平陸奥守ほか5家に割り渡されたことは、もとより深慮遠謀あってのことであろうが、蝦夷地は、もとわが祖先が辛苦平定した土地であって、文化年間いったん召し上げられたにかかわらず、のち文政年間に至って、旧家格別の儀をもって再び賜わった例もあるから、西蝦夷地の内、津軽藩の支配地を除き、久遠から厚田に至る15場所ならびに乙部から熊石に至る8か村を賜わらんことを嘆願し、また本藩は大藩に接し、これと肩をならべて箱館警衛に勤めているし、かつその所領は沿海の地で極めて重大な任務であるのに、小禄では家臣らの奮励も自然薄らぐおそれがあるから、年々の手当1万8000両の代わりに相当の領地を賜わり、7万石以上の格に列せられんことを請うたが、もとより入れられるところとはならなかった。しかし後、元治元(1864)年崇広が老中に就任すると、11月19日に至り乙部から熊石に至る8か村を賜わり、その代り年手当金のうち700両を減じられた。