安政6年の外国交易の開始は、箱館における商品流通のあり方に大きな変化をもたらしたが、それとともに貨幣の流通に一大混乱をまきおこすことにもなった。安政5年の通商条約第5条には「外国の諸貨幣は日本貨幣同種類の同量を以て通用すべし(金は金 銀は銀と量目を以て比較するを言)双方の国人互に物価を償うに日本と外国との貨幣を用ゆる妨なし」として、貨幣の同種同量の交換率が定められた。この規定によれほ、当時の国際的な貿易通貨であったメキシコドル(洋銀)1枚の目方は7.1匁余であり、一方、1分銀は目方2.3匁であったことから、1ドルは1分銀約3枚と交換されることになった。
ところが、このころの金銀比価は、国内では、ほぼ1対5であったが、国際的には1対16であったため、金銀交換率が両者の間では3倍の開きがあった。このため外国人は洋銀を1分銀に換え、それを更に小判や1分金等の金貨に換えて、国外に輸出し、こんどは1対16の割合で洋銀を入手したので、莫大な利益を得ることができた。また、なかには少し高く小判を買入れて、これを清国に輸出して巨利を収めたものもあり、その結果、日本の金貨は非常な勢いで海外に流出するに至った。
また銅貨についても同様の弊害が伴い、当時箱館で購入し得た銅貨は、1ドル当り4,200文であったが、これが上海では1ドル当り1,200文から1,300文で売られたから、船員たちは大量に密売買していたという。その上、洋貨使用の不慣れや中国製のにせ物がまじっていたために歓迎されず、流通がすこぶる悪かったので、箱館運上所では安政6年9月9日、洋貨の真贋(がん)を検定し、同様の洋銀100枚の平均量目をとり、銀貨ごとに極判(ごくいん)を打って通用させようとした。しかし日本各地から箱館に来る商人は、なお洋貨をきらって受取らず、みな日本貨を持去ったため、箱館の日本貨は著しく減少して洋貨が多く残ったので、その交換価値が非常に下がり、洋貨をもって取引する時は諸品に高値をつけられるので、市在ともに困難した。