三椏(みつまた)は前時代以来しきりに植えられたが、製紙を行ったのは当時代になってからである。在住鈴木主一郎が試みたのが最初であるが、主一郎は薄給の御家人で、公務の余暇に紙漉(すき)を内職としていた。安政3年箱館に移住し、官費で谷地頭に工場を建てられたのを引受け、職工2、3人とともに駿河、甲斐から三椏の皮を取り寄せ、岩石唐紙、駿河半切などを製造し、また漉返(すきかえし)をすいた。これらの紙は兵五郎なる者が直捌所を設けて売払いを行ったが、その量は極めて少量で官用の一部を補ったに過ぎなかったから、江戸から多くの三椏の種子を取り寄せ、谷地頭の開墾地に植えて盛んに営業する計画であった。しかし主一郎が死亡したためその業も廃絶されてしまった。