箱館奉行および支配吏員のなかに学者の多いのは、この時代も同じであった。武田斐三郎、栗本匏庵、鈴木尚太郎(名は重尚、茶渓と号す。『唐太日記』等の著あり、願乗寺の函港新渠碑の文を撰す)等の人々は、経史あるいは詩文をよくし、三田喜六(葆光、号櫨園)及び妻(花鮊)、石場斎宮(名は高門・箱館奉行支配調役並)は和歌をよくした。奉行支配組頭になった河津三郎太郎(字は祐邦、龍門と号す)も、文武両道に秀で、奉行支配勤方向山源太夫も学者であり、嗣子黄邨は彼の遺著19部241冊(北方関係のものが多い)を太政官歴史課に寄付している。箱館奉行書物御用を勤めた来住野(くすの)五郎治は、赤川村近江新三郎の3男で、林大学頭の家塾に学び、井伊大老に仕えたこともある。町の剣士や藩詰武士のなかにも、東(とう)善八郎や山田剛太郎(津軽藩士)のように、文道に優れた者がいた。