安政元年3月2日、松前藩江戸屋敷の留守居が急遽老中松平忠優より呼び出され、次のように申し渡された。今度渡来のアメリカ船から要望もあり、もしかすると退帆の際、直ちに松前辺へ行くやもしれないので、「万一渡来も候ハハ、卒爾之儀無レ之様、諸事穏便ニ取計可レ申旨、早々彼地江申遣候様可レ仕候」(『幕外』5-240、「北門史綱」は3月3日とするが、後掲の松平乗全の書状からしても、3月2日とみた方がよい)と。日米和親条約調印日の前日のことであった。当時江戸市中は、黒船の話で持ち切りであったから、松前藩も江戸藩邸を通じてその情報を入手していたことはいうまでもない。事実同年正月江戸藩邸にあった用人遠藤又衛門は、ペリー艦隊の江戸湾来航から2日後の正月18日、「弐駄早便」で江戸を発ち、2月15日に城下松前に着いている(伊達家文書「江戸状書扣」道図蔵)。この遠藤又左衛門の慌しい帰藩がペリー艦隊の江戸湾来航を告げるためのものであったことは想像に難くない。
ところが、右の老中達は、こともあろうに、そのペリー艦隊が松前辺に行くやもしれないので、もし同艦隊が松前辺に行った際は、「卒爾」(軽率・無礼)のないよう「諸事穏便」に取計うよう早急に国許へ伝えよというものであった。しかし、この達には、ペリー艦隊がなぜ松前に行くのかという肝心のことは何一つ記されていなかった。それだけに、江戸藩邸詰の重臣たちは、この老中の達に大きな戸惑いを感じたにちがいない。しかし幸いにも、翌3月3日、老中松平乗全の私信が江戸留守居嶋田興のもとに届いたため、これによって初めてことの経緯の一部を知ることができた。すなわち松平乗全の私信には、「昨日」の老中達にあるアメリカ船は、「薪水食料等差支候節、松前表ヘ罷越度候ニ付、地理之様子致二見聞一置度候ニ付罷越」すものであること、またこのことは、松前氏と「外御間柄」であるが故に知らせるものであること、などが記されていた(「北門史綱」巻之1、東史蔵)。
松平乗全が老中達の直後に私信でことの経緯の一部を松前藩に知らせたのは、前松前藩主松前昌広が弘化元(1844)年正月、松平乗全(当時寺社奉行)の娘″浪″と婚約(但し″浪″は、同年3月14日婚礼前に病没)したことにより、以後松平家と松前氏とは親密な関係を維持してきていたからであった(「松前家記」、「北門史綱」巻之1)。書状中の「外御間柄」とは、こうした関係を指している。ともかくこの松平乗全の書状によって、江戸藩邸詰の重臣たちは、改めてことの重大さを知らされることとなった。そのため、老中達・松平氏書状ともただちに「三駄早」便で松前に送られ、早くも3月14日に松前に到着した(「北門史綱」巻之1)。僅か11日間で着いたわけである。当時、江戸-松前間の往来は、通常30日前後を要したから、これはまさに超スピードの急便であった。それから2日後の3月6日、藩庁は家中に対し老中達の内容をそのまま達している(「湯浅此治日記」『松前町史』史料編第2巻)。