牛供給の許可

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 そのため箱館奉行は、以後老中に対し、「一旦牛飼立御渡方可相成旨申達候後ニ而、今更断及候義不都合ニ候」(3月23日、『幕外』14-16)、「最初より申上候通、異人養生之為懇請いたし候ハ、素より生牛ニて、私共申上候も、耕牛ニ対し野牛と申候義ニ有之」(4月1日頃、『幕外』14-26)、「畢竟、民力に代り、民産を賑候故を以て、容易ニ人食ニ不相用御法ニ可之処、愛惜之余り、日本全州江及候程之禍等引出し候而ハ、御建法之御大旨ニも戻り候場ニ可相成哉与取計方甚差支、…今更程能断候義は行届かたく与奉存候」(5月8日、『幕外』14-63)等と相次いで主張しつつ、前向きの対応策を示すよう強く訴えていったが、こうした一連の箱館奉行の主張の中で特に興味深いのは、6月19日付老中宛上申書(『幕外』14-112)で、シビル号のコマドールとの会談結果をふまえつつ、次のように述べていることである。
 (1)鶏肉他の肉類は常食ではなく、各自が必要に応じて購入し、士官以上は、その代金を官に支払うのみであるが、牛肉は、乗組員全員に対し官より支給されるものであること。牛1頭の肉は1日300人の糧にあてるので、生牛を多数船に積むことが不可能であることから、主として塩肉を用いていること。そのため、5か月も航海していれば、船員の多くが「水腫」にかかるので、各国とも軍艦にあっては、入港地で牛肉を求め、その費用は官で負担すること、(2)こうした点からすれば、外国軍艦の船員にとっての牛肉は、「御国ニ而軽き御家人迄被下候御扶持方同様」「船中扶持方同様」のものであること、(3)この点を考慮すれば、「薪水食料ハ、彼方専要之申立にて、其他御条約にも被及候処、右食料中最第一の品御渡し方不相成候而は、御開港之御旨意貫き兼候様存取可申哉」、(4)こうした事実が分った以上、「此上御渡方無之候而は、我邦の獣畜を愛護可致為め、外人の死生を忘却致し候訳ニ相当り、御不都合にも可之と奉存候」、(5)「生牛ハ自国之米穀同様ニ而、一日も不欠至重之品」故、「彼方懇請中、速ニ御英断を以御渡相成候方、万全之御良策と奉存候」。
 かくして老中は、7月25日、遂に「英国之儀ハ、又国法も違ひ候廉も可之、此度被申聞候通、畜類愛惜之あまり、日本全州江及候禍根等引出し候而ハ、実以不容易事ニ付、生牛渡方丈之処ハ、餘事ニ不差響様篤と勘弁いたし、差免候様可致候事」(『幕外』14-177)と箱館奉行に達し、箱館に於てのみイギリス軍艦への生牛の供給を許可するに至ったのである。これはまさに、箱館奉行の老中に対する粘り強い説得によって初めて実現したものであった。しかも同年8月、同奉行(竹内・堀・村垣)が老中に対し、イギリス船に対してのみならず、アメリカ・ロシア・フランスの各船に対しても許可すべき旨上申するや、9月20日、これもすんなりと許可された(『幕外』14-287、『維新史料綱要』)。「獣畜場」については、「村垣淡路守公務日記」安政5年正月14日条に「豕囲所、御蔵地後千四百三十弐坪、牛囲所、同断、和賀屋茂兵衛拝借地之内、二千四百八十坪上ケ地廻し済」とあるので、安政5年正月14日までには完成したことが分る。なお、右の問題とのかかわりで、箱館奉行が被差別民である「穢多」を箱館に移住させたとみられることを付言しておきたい。「箱館夜話草」巻之壱(『函館市史』史料編第1巻)に、「安政三年の春より穢多ども此辺に住居する事とはなりぬ。是まで箱館に穢多といふものなし」とあるが、右の経緯からして、この文にある「穢多」とは、イギリス軍艦に対する牛肉・牛の供給を目的として移住させられたものとみられるのである。居住地は、市街東部にある「牢屋」の向かいの地であった(万延元年「箱館全図」、同図には「牢屋」の向かいの地に「エタ」と記されている)。
 *1 「脚気」は誤記、正しくは壊血病(横浜開港資料館編『イリュストラシオン』日本関係資料集 1956年11月8日の記事より)