英語稽古所の終焉と明治維新

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 慶応に入るとこうして着実に通訳が育っていた箱館も、名村五八郎の離箱とそれに前後した門弟の出府などにより、全く精彩を欠くありさまとなった。まず、塩田三郎は文久3年末に遣仏使節の随行のため、出府してそのまま外国奉行支配下におかれ、名村五八郎は慶応元年春頃私用で離箱した後そのまま帰ることはなかった。また立広作も外国奉行支配となり出府を申し付けられ、同年秋頃出府した。その上鈴木清吉と小林国太郎は病気のため、同年中に御役御免となった。翌年には海老原錥四郎がやはり病気療養のためとして8月に出府という具合である(「訳官黜陟録」)。ただし海老原は実際のところは、出府してすぐに遣露使節の通訳として名村や志賀と共にロシアへ派遣されているので、病気というのは疑わしい。結局、有能な通訳はみな中央へ引き抜かれたようなものであった。さて、英語稽古所は主宰の名村がいなくなっては、もはやその機能を失ったも同然という状況であったであろう。当時のイギリス領事ヴァイスが公使パークスヘあてた1866(慶応2年)年1月1日付けの書簡には、次のようなことが書かれている。「このようなことを言うのは残念だが、理解可能な英語またはオランダ語の読み書きができる通訳は、今は一人もいない。これもまた大いに深刻な難点である」(『イギリス領事報告』国立国会図書館蔵)と。主だった通訳たちが去った箱館には、まだ経験不足の通訳しか残っていなかったのである。
 このような時に、立広作の代わりとして慶応元年秋頃に来箱したのが、開成所教授職の堀達之助であった。堀の中央での活躍は有名であるが、箱館では名村五八郎の実績を引き継ぎ、いわば英語稽古所を再編成して箱館洋学所を創設したと考えられる。実際に洋学所では、すでにロシア語通訳であった鈴木甚太郎が堀から英語を学んでいる。その他、堀に師事したのは、石子谷五郎や中島銀八郎がいる(「訳官黜陟録)。また彼の功績の一つとしては、「函館文庫」を設立して、箱館奉行所の洋書の保存につとめ、維新後は教育のための教材として多数の洋書を購入していることがあげられる(前出『函館英学史研究』)。明治に入った直後の、通訳の動静は明治元年の「外国人ニ関スル件」(道文蔵)に記述されている。慶応2年「履歴明細短冊」(道文蔵)にある通訳たちの名前と比較したのが表序-20である。これを見ると政治体制の変化にも関わらず、旧幕府に通訳として勤務した人が、ほぼ残留しているのがわかる。
 
 表序-20 通訳者の動静
慶応2年「履歴明細短冊」明治元年「外国人ニ関スル件」
堀達之助
東浦房次郎
南川兵吉
千葉弓雄(明治元年没)
鈴木知四郎
稲本小四郎
若山弁次郎
近藤源太郎
鈴木甚太郎
石子谷五郎(見習)
堀達之助
東浦房次郎
南川兵吉
鈴木知四郎
稲本小四郎
若山弁次郎
近藤又之丞(源太郎)
鈴木甚太郎(後に合田甚太郎)
佐山利三郎
福士卯之吉

 
 箱館戦争の動乱を過ぎて、通訳たちは開拓使の職員録に訳官という職名で登場する。明治5年の職員録には以下にあるように、改名はしているが依然堀をはじめとして数名は旧幕以来、引き続き任用されている。開拓使1等訳官 堀達之(堀達之助)、開拓使3等訳官 福土成豊(福土卯之吉)、開拓使4等訳官 南川将一(南川兵吉)、開拓使4等訳官 東浦徳重(東浦房次郎)、開拓使4等訳官 長岡照止、開拓使4等訳官 田中清、開拓使6等訳官 若山義知(若山弁次郎)、開拓使7等訳官 合田光正(合田甚太郎)。これ以降の箱館における外国語の指導者や学生の実態については、第10章第1節を参照してほしいが、箱館の開港場としての役割が低下するにつれ、あれほど充実していた箱館の通訳の世界は消えていったのである。本州諸藩とちがって箱館のように学問はもちろん、すべての面で歴史的蓄積のないところから、有能な通訳を輩出できたのはあくまでも奉行所中心の実学としての語学であったからであろう。